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2008-07-29 16:19 | カテゴリ:ハンガリー
時々やたら不思議なものにやたらひっかかる時期がある。2年前なんて、ゲイのミュージカル3種類を一ヶ月以内に見たし(Hedwig,ラカージュ、キャバレー)、St Wolfgangになぜか2週連続で行ったりするし。そういう意味でも、偶然今年は鉄のカーテン崩壊づいてるなあ、と思うわけですよ。こないだベルリンに行ったときには壁博物館とかチェックポイントチャーリーとか見たし、かと思うと偶然ヨーロッパピクニックの事件現場に行けちゃったりするし。

このヨーロッパピクニック事件、昔NHKで見て衝撃を受けて、あれ以来ずっと気になってたのだ。。

●ヨーロッパピクニック事件とは

ベルリンの壁崩壊が冷戦の終結として知られているけれど、本当の鉄のカーテンの崩壊はこのハンガリーとオーストリアの国境で起こったヨーロッパピクニック事件が始まりだったのだ。当時東ドイツ国民は西側諸国への入国は禁止されていたが、同じ東側であるチェコやハンガリーへの旅行は比較的簡単に出来た。1989年5月、東ドイツ市民の間でハンガリーがオーストリアとの国境を開放するといううわさが流れ、東ドイツ市民がハンガリーに流入した。実はこれはデマで本当はハンガリー人がオーストリアに旅行できるに過ぎなかったが、このうわさのせいでハンガリー国内にはノイジードラー湖沿いのバカンスと称した大量の東ドイツ人難民がオーストリアとの国境付近にあふれることとなった。

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こうした状況の中、ハンガリー国内ではこの東ドイツ人難民を西側へ逃がしてやろうという動きがあった。ハンガリーの民主化を求める「民主フォーラム」やハプスブルグ家の末裔オットー・フォン・ハプスブルグが活躍し、8月19日に「ヨーロッパピクニック」を計画した。このピクニックは、形式上は「ショプロンに集まってヨーロッパ統合について話し合う会議」で、そのイベントの一環としてハンガリー内務省に正式に許可を得て40年間開いたことのなかった国境を開放。この国境開放イベントに乗じて東ドイツ国民がオーストリアに流入することを「黙認した」というイベントだったわけ。

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舞台はオーストリアとの国境に近いハンガリーの町ショプロン。ここにピクニックの参加者が大量に集まり、国境開放を待った。その時オーストリア側では受け入れ先の村St.Margaretenで報道陣や送迎バスが手配され、亡命者の受け入れ態勢も組織的に整っていた。3時間と期限付きの国境開放の瞬間が迫るにつれ、亡命者は公式声明を待ってショプロンにいる者たち(大多数)と、それを待ちきれず国境線付近で待機している150人とに別れていた。

代表団の挨拶が大幅に遅れ、待ちきれなくなったこの150人は、公式の国境解放を待たずに国境を渡り始めた。国境警備隊は射撃命令を受けていたにも関わらず発砲を見送り、この150人は無事にオーストリアへと渡ることが出来た。数時間後、公式発表を待って残りの1000人近い東ドイツ人たちが国境を渡り(兵士たちは黙認)、受け入れ先の町St.Margaretenから21時にはバスでウィーンに運ばれ、そこから南ドイツ行きの電車で西ドイツへと入国していった。

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このヨーロッパピクニックの成功をを受けて、東ドイツ人の流出はさらに激しくなり、ベルリンの壁が意味を成さなくなった。これを受けて東ドイツ政府が旅行ビザ発給規制を緩和しようというニュースがベルリン内で間違って放送され、これがベルリンの壁(11月9日)の直接の原因となった。(ベルリンの壁レポhttp://mixi.jp/view_diary.pl?id=848240351&owner_id=132300写真追加)

というわけで、本当はベルリンの壁崩壊はいきなり起きたことではなく、ピクニックの成功が本当の鉄のカーテンの崩壊第一歩だったというわけ。

参考
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%8E%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%91%E3%83%BB%E3%83%94%E3%82%AF%E3%83%8B%E3%83%83%E3%82%AF
ハンガリー国内の後押しする動きについてはこちら(これについてはNHKで詳しくやっていたようです)
http://www.asyura2.com/0610/asia6/msg/128.html
わかりやすい説明
http://www.mauer.jp/mauer0/mauer0y.html

●なれそめ

このヨーロッパピクニック、ちょうど人生の方向転換をしよう、ウィーンに来て国際関係を勉強しよう、って思ってるときに出張先で偶然見たNHKで特集やってたんだよね。知らなかったことだけどあまりに興味深くて遅くまで見てたんだった。すごくいい番組だったし、何より映像が衝撃的だったのでよく覚えてる。(http://www.nhk.or.jp/archives/nhk-archives/past/2004/h040606.html

けど、当時はハンガリーやオーストリアの地名なんてわからなかったし、なんか東と西の国境でなんかあったんだなあ、程度だったんですが、こないだアンダンテの日記で、このピクニック、実はショプロンが舞台だったことが判明!めちゃめちゃ近いじゃん!現地に行ってみたい!!!と急に調べる気満々になったのでした。

偶然先週末はセイリングのコースでノイジードラー湖(ハンガリー語でフェルトゥー湖)のRustにいたんですが、地図を見たらそこからハンガリーの国境はすぐそこ!!おまけに、地図上に「ヨーロッパピクニック記念碑」って書いてあるじゃないですか!!!!!現地のすぐそばで二日間もセイリングやってたのか。。。

●現地への行きかた

この日はノイジードラー湖の国境周辺をサイクリングしながら、ピクニック現場を取材しつつ、開いたばかりのハンガリーとオーストリアの国境を自転車で自由自在に越えてみる計画!(ハンガリーがシェンゲンに入ったのは今年から)

しかし、記念碑を実際に探すのには非常に手間取った。なぜか、オーストリアから車で記念碑にはたどり着けないようになっているので、私もかなり苦労した。

土地の話をすると、湖沿いにウィーンに近いほうからRust(ワインとコウノトリで有名)、Moerbisch(湖上オペレッタ有名)、国境、Fertotrakos(ハンガリー)と言う順番で、それぞれの町の距離は6キロほど。Rustから内陸に6キロ行くとSt Margaretenという村がある(野外オペラで有名)。記念碑は国境から内陸に6キロいったところにあるはずなんだけど、国境近くのためか車で通れない道が多くて非常に難儀する。

St. M. ------- Rust +
  |        |   +
  |       MB  +  湖
記念碑 (AT)  |   +
--[]----国境--[]-- +
記念碑 (HU)) |   +
  |        |   +
  |       / FR  +
Shopron---- /     +

周辺地図(ハンガリー的視線から)
http://www.hungarytabi.jp/sekaiisan/mapfer.html

この地図のうち、車で通れるのはSr. MーRust間とRust-MB間。MBとFRの間は国境では車道は遠回りになる。MB?記念碑間は車道は途中までで、いきなり自転車&歩行者専用道になって一般者は通行できないので注意。MBから自転車で行こうとすれば間の丘のアップダウンがあり、自転車では結構大変。遠回りしてSt.Mから記念碑のほうへ向かおうとすると、これも途中で一般車通行止めとなるが、住民、農業の車は通行可。

すなわち、オーストリア側からピクニック記念碑に車で近づくことは不可能。自転車でMoerbischから丘をえっちらおっちら越えていくか、St. Margaretenから自転車で行くかしかない。(どちらも歩くには遠すぎる距離)オーストリアでここまで近づきがたい記念碑に行ったことがないので相当びっくり。これも国境が近いからか。

ちなみに、いろんなソースを見てると、ピクニック事件はショプロンが舞台だとか、Fertorrakosが舞台だとか書いてありますが、本当はどちらもちがう!ショプロンとSt.Margaretenの中間地点にある地名も何もない国境地点が現場です。湖畔サイクリング用地図には「ピクニック記念碑」って書いてあるけど、普通の地図には書いてないと思うので探す人はがんばってください。。

●現地突撃!

結局St.Mから記念碑までがんばって突破し、ようやくピクニック記念碑に到着。苦労しただけに感慨深いわ。。おまけに、今年からシェンゲンもなくなって、この20年前には人も寄せ付けなかった恐るべき国境が、今はまったく障害物もなく開放されてるんだから不思議。。。国境警備の兵隊も警察も誰もいないよ。。。

まず、オーストリア側から国境を眺めてみる。シェンゲンの国境があったころは手前に赤い鉄製の柵、置くに赤緑白の鉄製の柵があり、それぞれ二人ずつ兵士が立っていたらしい(写真http://www.hungarytabi.jp/literary2.html)。いまは、人っ子一人なく、オーストリア側の赤い鉄柵も撤去されている。ハンガリー側はまだ赤緑白の鉄柵は残っているが、開放された状態。こんな状態で今からシェンゲン復活させます!とか言ったって越境者を止めるなんて事実上無理だろうよ。。。シェンゲン恐るべし。。

オーストリア側には歴史の説明パネルが一枚。ピクニックの概要をドイツ語とハンガリー語で説明している。冷戦当時の閉じられた国境の写真と、ピクニック事件で国境を越える人たちの写真(NHKで見たやつだと思う!)、ピクニックの招待状(こんなの大々的にして大丈夫だったんだろうか。。(爆))も資料として写真がある。周りは生い茂る森。この道は2000年前にローマ人がウィーンへ向かって通ったらしく、ローマ人琥珀の道と名づけられている。

さて、ちょっと緊張しながらこの人なき国境線をハンガリー側に越えてみる。歩いて国境を越えたのはめったにないかも。それもパスポートチェックなし。ちょっと密入国気分。これが冷戦当時だったら、車も荷物も自転車も全部オーストリアにおいて、貴重品だけ持って東側に入ったようなもんだ!このまま西側に帰れなかったらどうしよう。。とどきどき。この人っ子一人いない国境が、19年前にはがちがちに見張られて、超えたら撃たれてたところだったんだよ。。。

さて、ハンガリー側はオーストリア側の森と違ってきれいに整備された公園となっている。また、パネルや記念碑の数もずっと多い。おそらく、オーストリアが受入国であったのに対し、ハンガリーにとっては東ドイツ国民を逃がしてあげた以上に、自国に民主化にとって意味のある事件だったからかな。

まず、世界遺産の公式の説明パネルがある。薄くなって読みにくいが一番古くからある説明らしい。そして、Iron Curtain Trail(鉄のカーテンの散歩道)という表示が見えてちょっと笑ってしまう。こんなにのどかで誰もいないのに。。でも、19年前はここが鉄のカーテンのもっともホットな場所だったんだよ。。。と思うとぞっとした。

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国境近くには扉が開いた形のモニュメントがある。記念碑としては一番気に入ったかも。ほかにもいくつかハンガリーのこの地方の木彫りが置いてある。ハンガリー人のカップルが車で到着して、同じく展示を見て回っている。ハンガリー人が興味を持ってみているのはいいことだ。

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さて、反対側に目を向けると、さらに説明パネルが10枚!ひえー。これ全部読むのは大変だーと思いつつ、「鉄のカーテン散歩道」をお勉強しながら散策してみることに。ここには、ハンガリー語、ドイツ語、英語、日本語でピクニック計画の詳細が順を追って説明してある(私の上の説明はこのパネルがソース)。写真もたくさんあって非常に勉強になった。やっぱり、ピクニック計画の成功はハンガリーの民主化にも影響があったんだね!ふむふむ。

途中で実際に使われていた国境の鉄条網の展示もあり、ベルリンの壁とは違う形の鉄のカーテンを目の当たりしてどきどきした。して、遠くにはまだ国境監視用の塔が威圧的に立っていて、当時の雰囲気をかもし出している。ハンガリー人のおじいさんが犬を連れて車でやってきて、犬は人懐こく私についてきた。おじいさんは国境近くなのにぜんぜんドイツ語がしゃべれないらしく、私とはスマイルで意思疎通。線一本超えたらドイツ語すら通じないのか。。これも国境が開放されたらどんどん混じっていくに違いない。

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あとで思ったけど、この解説がハンガリー語、ドイツ語、英語のほかに日本語だったのにびっくりした。普通はフランス語かイタリア語なのに。なぜ日本語?しかし、帰ってこのサイト(http://www.hungarytabi.jp/literary2.html)を見てわかった。ハンガリー人と結婚した日本人が記念公演の整備に協力していたのだ。秋田から桜の苗木も送ってもらったんだってー。日本人すごいーー。

というわけで、非常に勉強になったヨーロッパピクニック現地調査でした。オーストリア側からの車のアクセスが非常に困難なのはちょっと残念だったけど、おそらくハンガリー側からだとショプロンから道があると思います。どうしてもオーストリア側から行きたい人はぜひ自転車で!

●Fertorrakosの町

一旦記念碑のある内陸の国境を離れて、Moerbischまで行き、ここで車を置いて本日の二つ目のテーマ、国境越えサイクリングへ。自転車専用道でMoerbischからFertorrakos(ハンガリー側の湖畔の村)までいけるので便利♪ここの国境ももちろん開放♪国境開放最高!!!ハンガリーに入ったところでローマ人が作ったミトラ神の神殿発見。なんという大昔。。。

そのまま20分くらいすいすい進むと石切り場で有名なFertorrakosの町に到着。たった20分なのにオーストリアの町とのこの違いは何。。いや、このオーストリアと東欧の差を体感したくて自転車で国境渡ったんですが、町のインフラが違いすぎる。。ハンガリーはまだ道ががたがただし、歩道と車道の間がかなり危険。家もレンガ剥き出しだし。。ああ、この東欧っぽさが好きさ♪このあたりは冷戦時代は国境に近すぎて寂れてたらしいから、今はすでに結構復興してきたところなのかな。あと10年もしたらぴかぴかになってるんだろうな、と思うとちょっと寂しい。

同じ湖だけどハンガリー側からも入ってみたかったので、湖畔まで自転車を飛ばす。オーストリアでは完全有料なんだけど、ハンガリー側ははぜか無料ゾーンがある♪無料ゾーンで湖に入って遊んでみた。ラッキー♪しかし、みんなほんとハンガリー語ばっかりだ。。国境近くって言語が混じってるのかと思ったけど、ここは恐ろしくモノリンガルだよ。。。

湖で遊んだあとショプロンまでよっていこうと思ったけど、もう遅くなりそうだったのでRustでホイリゲよってウィーンに戻りましたとさ。ちょっと国境越えるだけでアドベンチャー気分の一日だったよ。。。
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