舞台はウィーン!
ウィーン、オーストリアからミュージカル情報を中心に、文化、歴史、生活などを紹介します。
| ホーム |
2019-04-29 16:12 |
カテゴリ:ウィーン
もう2年近く探している、ウィーン旧市街にあるトルコ包囲の砲弾ですが、やっと三つ全部見つけることができたので、まとめておきます。
注:ドイツ語ではTürkische Belagerung(トルコ包囲)というので、当ブログでもよくこの表現を使いますが、日本の世界史で習う用語としては「ウィーン包囲」です。
また、トルコ包囲は第一次(1529年)と第二次(1683年)の二度あります。今回の記事でも、両方のトルコ包囲が登場します。
まずはこちらの三つの玉。これは、ウィーン最古のレストラン「グリーヒェンバイスル」の入り口に飾ってあります。
「1529年にここは『金の鷲亭』という食事処があり、市壁の一部となっていました。1963年の修復時にこの三つの玉が発見され、この建物の過去を示すため、ここに掲示します」
ただし、この玉が本当に当時のものだったかは疑問視されていて、第二次トルコ包囲の時のものだったという説もあります。
また、グリーヒェンバイスルについては、こちらの記事をどうぞ。
次の二つは、第二次トルコ包囲のものです。
一つは観光地からは少し引っ込んだところにある、Sterngasseの一角にあります。
これは、旧市街で最大の砲弾であるだけでなく、唯一のオリジナルとわかっているものです。
説明書きはとても読みにくいですが、「1683年7月20日にLeopoldstadtの方から飛んできた。79ポンド(約40kg)」と書いてあります。
三つ目の、アムホーフ広場の奥の建物のファサードにある金色の玉は、1683年第二次トルコ包囲の時の砲弾です。その後金色に塗られて、1686年にここにあった建物にかけられ、「金の玉亭」という店の名前の由来にもなったそうです。
ここにあった建物は、1882年に取り壊され、新しい建物が建てられます。その翌年の1883年がトルコ包囲200周年だったこともあり、この金の玉は新しい建物のファサードにも取り付けられ、現在に至ります。
こちらの説明書きは新しいですが、「1683年のトルコの砲弾。後年壁に埋め込まれて金に塗られた。ここには過去に、その名を掲げた店あった」とあります。
というわけで、ウィーン旧市街にある三つのトルコの砲弾をまとめてみました。
トルコ包囲に関する記念碑は、ほかにもたくさんありますので、またまとめていきますね。
- 関連記事
-
- ウィーン旧市街にある、トルコの砲弾まとめ (2019/04/29)
- 鬼龍院さんが訪れたウィーン③ホテル編 (2019/04/22)
- 鬼龍院さんが訪れたウィーン②レストランとケバブ屋 (2019/04/21)
- 鬼龍院さんが訪れたウィーン①教会、ザッハトルテ、モーツァルト、オペラ座 (2019/04/18)
- ウィーンの教会の鐘聴き比べ(アウグスティーナ教会、シュテファン大聖堂、ミヒャエル教会) (2019/04/03)
- ウィーン世界遺産の危機について (2018/05/01)
- 中世の墓地を照らした常夜灯Totenleuchte (2018/03/19)
- ウィーン国連前に建つエジプトの「コプト教会」 (2018/03/17)
- 地下鉄Stubentor駅の市壁とその歴史 (2018/03/03)
- ハイリゲンシュタット散歩でベートーベンとシューベルト (2018/01/20)
- シュテファン大聖堂の有料エリアと入場料情報 (2017/04/21)
- 美しき青きドナウは4本もある?ドナウと名の付く川的なもの (2017/02/03)
- 車椅子ウィーン観光に付き添って感じた事 (2016/10/07)
- 車椅子用フィアカー(ウィーンの観光馬車)に同乗させていただいた話③フィアカーの魅力 (2016/10/02)
- 車椅子用フィアカー(ウィーンの観光馬車)に同乗させていただいた話②ゆったり観光編 (2016/09/29)
| ホーム |