舞台はウィーン!
パリのノートルダム大聖堂の火災には大きなショックを受けましたが、こ機会に、1945年にウィーンのシュテファン大聖堂を襲った火事とその後の話をまとめておきます。
オーストリアの象徴ともいえるシュテファン大聖堂は、第二次世界大戦終戦直前まで奇跡的に無傷を保っていました。戦争当初からターゲットになる確率が高いと言われていて、内部の美術品や宝物は、地下室などに避難されていました。
そんな中、第二次世界大戦が終わろうという1945年3月12日、アメリカ軍の空襲により、2つの砲弾が北東の角とカタコンベ入口が破壊され、同時に大聖堂周辺の水道が破壊されます。
4月1日、一部破壊された大聖堂内で、イースターミサが執り行われました。
その後も、ソビエト軍の攻撃により、シュテファン大聖堂周辺で手榴弾が飛び交う中、塔などが一部損傷します。
4月10日、シュテファン大聖堂はある男によって救われます。ソビエト軍がウィーンに入った際、大聖堂の塔の近くで白旗を掲げた人がいるという噂が立ちました。
このことに業を煮やしたSS(ナチス親衛隊)は、大聖堂の破壊を命じますが、Klinkichtという将校が命令の執行を拒み、シュテファン大聖堂は破壊を免れます。今でも大聖堂には、彼の功績を記した記念碑が残されています。
またこの時、シュテファン大聖堂の正面に05の数字が刻まれます。 この05の文字はまた別の機会に記事にしますが、オーストリアという国が併合され、分割統治されても抵抗を続けるという強い意志の表れです。
ソビエト軍が侵攻してきても、損傷は一部に留まっていた大聖堂ですが、翌日とうとう事件は起きます。
1945年4月11日、大聖堂から火が出ます。原因は大聖堂周辺の建物が荒らされて出た火が燃え移ったものとされていますが、SSやソビエト軍が砲撃したという説もあります。以前の爆撃で大聖堂周辺の水道が破壊されていた上、SSの命令でドナウ運河方面に消防士が出払っていたため、市民は為すすべもなく見守るしかありませんでした。
シュテファン大聖堂の屋根と天井のアーチは焼け落ち、プンメルンと呼ばれる巨大な鐘と、もう一つの鐘は落下して粉々になり、パイプオルガンは熱風でヒューヒューと音を立てながら壊れていきました。ウィーン人は、そんなシュテファン大聖堂の姿を見て、泣きました。
当時の枢機卿が、„Na, wir werden ihn halt wieder aufbauen müssen.“ 「さて、また建て直さないといけないね」と言った言葉通り、4月25日には既に、戦後の混乱の中、後片付けが始まりました。
シュテファン大聖堂は、焼け落ちてから3年半後に、再建工事がまだ進む中、再開します。主翼部分とプンメリン(鐘)は1952年に修復され、南塔(高い方の塔)の修復には1965年までかかりました。
当時の司祭が、国中回って寄付を募った結果、ニーダーエスターライヒ州が石の床、チロル州が窓、シュタイヤーマルク州が扉、といったふう、オーストリアの各州がそれぞれ重要な部分を担当し、再建に協力しました。