2017-02-01 16:22 | カテゴリ:歴史

前回の記事で、オイゲン公からモーツァルトまでの5人のハプスブルク家当主を並べてご紹介しましたが、この人たち、一体役職は何だったんでしょう?ハプスブルク皇帝?オーストリア皇帝?いえいえ違います。

 

●オーストリアの君主は皇帝?大公?

 

横軸で見ると、当時は「オーストリア皇帝」と言うものはなかったんです。オーストリアという国の君主は「オーストリア大公Erzherzog」で、ハプスブルク家の当主が務めていた。大公が治めるので、帝国ではなく「公国」。

 

このハプスブルク家の当主は「ハンガリー王」「ボヘミア王」など他の国の君主も兼任していました。そんな兼任する役職の中の一つに「神聖ローマ帝国皇帝」があり、「皇帝」を名乗れるのはこの役職のおかげでした。

 

じゃなんで、ローマと地理的に関係なさげなハプスブルク家が「神聖ローマ帝国」の皇帝になれるの?ってところから説明します。

 

●神聖ローマ帝国=ドイツ?

 

神聖ローマ帝国の始まりは、962年に苦労人wオットー1世がローマ教皇から「あなたローマ帝国の皇帝ね」と任命してもらったことから始まります。このローマ帝国の皇帝は、ローマ教皇より下の立場だったのが、段々強くなっていき、おまけに「神聖」の名を付けたりして独自の格を持ち始めます。

 

当時ドイツは、今のような統一された国ではなく、日本史の藩のような感じで、それぞれ王が統治していました。おまけに周りと戦争しまくるので、領土もあやふや。ローマに住む教皇は、その王たちを取りまとめる、戦国時代の天皇のようなものでしょうか。そんな王から選ばれ、教皇に任命される「神聖ローマ帝国の皇帝」は、将軍に近いかもしれません。

 

ドイツの地域ごとの王(選帝侯)が話し合って決めた人を教皇に任命してもらっていため、神聖ローマ帝国皇帝の地位は元来非世襲。色んな王が持ち回りで皇帝の冠も被るので、「神聖ローマ帝国」という土地の君主と言う意味合いは少なく、ドイツ語圏の「王様の王様」という名誉職と思えばわかりやすいかも。

 

選帝侯たちは、なるべく無能な人物が皇帝に選ばれるよう画策した結果、皇帝が見つからなかったり、逆に無能で高齢だと思って選んだ人が有能すぎて失敗したこともあった。例えば、当時弱小だったハプスブルク家のルドルフ1世を無能と判断して選んだら、名門に成長し領土を広げまくったり。

 

ハプスブルク家はこのルドルフ1世の後で二代世襲で「皇帝」を出すが、その後200年程選んでもらえなかった。それが、15世紀中頃からは独壇場。オーストリア大公であるハプスブルク家が「皇帝」の冠を連続して被り、「ハプスブルク家当主=オーストリア大公=神聖ローマ皇帝」の時代が来る。

 

●王位と皇位兼任の問題①一人二役(以上!)

 

しかし、一人の人物が複数の王位や皇位を兼任していると、やっぱり無理があるようで、色々とややこしいことがある。まあ、それも政治の世界だから無理やり何とかしちゃうわけなんだけど。

 

まずは、同一人物が役職によって呼称が変わるということ。例えば、ハプスブルク家のカール2世は、オーストリア大公としては二人目のカールなので2世だが、神聖ローマ皇帝としては6人目のカールなのでカール6世となる。つまり、同じ人物がオーストリア大公カール2世=神聖ローマ皇帝カール6世

 

●王位と皇位兼任の問題②皇帝になれないマリア・テレジア

 

更に、オーストリアは女性の大公を認めているが、神聖ローマ皇帝は認めていない。15世紀以降、ハプスブルク家大公=神聖ローマ皇帝なのだが、唯一の例外がマリア・テレジア

 

彼女はオーストリア大公やハンガリー女王、ボヘミア女王としてものすごい政治的手腕を振るったけど、神聖ローマ皇帝(女帝)の役職についたことはないので、「女帝マリア・テレジア」と言うのは正式には誤り。

 

マリア・テレジアが神聖ローマ皇帝になれなかった40年間は、3人の男性がその地位に就いた。ハプスブルク家の世襲を守るため、マリア・テレジアの父カール6世が、次の皇帝はマリア・テレジアの夫フランツ・シュテファンだと指名して亡くなったが、、

 

バイエルンのヴィッテルスバッハ家のカール7世という非ハプスブルクの人が、二代前のヨーゼフ1世の娘婿だとか言う理由で割って入った。しかし彼の在位はたった3年。やめときゃいいのに、マリア・テレジアが即位したてのオーストリアに攻め入り、逆に返り討ちに合って、領土も地位も奪われてしまう。

 

そして、二人目の穴埋め皇帝は、予定通りマリア・テレジアの夫のフランツ・シュテファン改めフランツ一世。妻はオーストリア大公、ハンガリー女王、ボヘミア女王でバリバリに領土を支配してるのに対し、夫は名誉職の神聖ローマ皇帝。

 

更にマリア・テレジアも、夫が皇帝になったからKaiserin(皇后)と言うことになり、Königin(女王)とKaiserin(皇后)の頭文字を取ったK.u.K.の称号を使うこととなる。

 

このラブラブ女王皇帝カップルは、マリー・アントワネットを含む11女5男をもうけた。けど、フランツ・シュテファンは妻の尻の敷かれてたというわけではなく、実は他にもいっぱい婚外子がいて、オーストリア人の半分は彼の子孫とかww(シュロスホフのガイドさん曰くw)

 

けど、穴埋め皇帝フランツ1世は、妻より15年も早く亡くなります。そのため、ハプスブルク帝国次期当主のヨーゼフ2世(倹約大好きw)が、父の跡を継いで神聖ローマ皇帝に。マリア・テレジアが亡くなり彼がオーストリアの大公になった時点では、すでに皇帝として15年のキャリアがあったのね

 

まあこの後は、オーストリア大公=神聖ローマ皇帝はマリア・テレジアの息子、息子、孫と三人続いて、神聖ローマ帝国自体がおしまいになります。次は、どうやって神聖ローマ帝国が終わり、オーストリア皇帝が誕生したかのお話です。

 

●皇帝を辞めて皇帝になる男

 

同一人物なのに、大公と皇帝で名前が違うので有名なのが、最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世。18世紀末から19世紀初めにかけて、ナポレオンの混乱の中で神聖ローマ帝国が崩壊した時(1806年)の皇帝としても有名。この人は策士だー!

 

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このフランツ2世は、神聖ローマ帝国が崩壊すると同時に皇帝としての称号を失い、ただの「オーストリア大公でハンガリーなどの王」に戻ったわけだが、転んでもただでは起きない。

 

自分はやっぱり皇帝のままがいい!それなら、ハプスブルク帝国としては初代の皇帝フランツ1世を自称しよう!と思い立ち、ここで初めて「オーストリア皇帝」が誕生する。同じ人物が、神聖ローマ帝国最後の皇帝フランツ2世→オーストリア帝国最初の皇帝フランツ1世にスライドしたわけですね。

 

●オーストリア皇帝、少な!

 

この後歴史上の「オーストリア皇帝」はたった四人

 

上述のフランツ1世(メッテルニヒとか起用した人)

 

フェルディナント1世(病弱)

 

フランツ・ヨーゼフ1世(突然の知ってる人wフェルディナント1世の弟フランツ・カール大公の長男で、シシィの夫)

 

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カール1世(皇太子ルドルフ自殺→皇太子フランツフェルディナンド、サラエボ事件で射殺の末に皇帝の位が回ってきた人で、フランツヨーゼフの弟の孫)

 

の4人でおしまい。

 

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カール1世

 

オーストリアってずっと帝国だと思ってたけど、実際にオーストリアが帝国で、君主が皇帝だったのって、たった4人だけだったのね!

 

まあ4人とは言っても、期間で言うと114年間。そのうち半分以上がフランツ・ヨーゼフの治世。フランツ・ヨーゼフ偉大だ。。

 

●まとめ

 

というわけで、オイゲン公の時代はオーストリアの君主はなんで皇帝じゃないの?ってところから、神聖ローマ帝国の歴史やら、ハプスブルク家やら、近代史に足ツッコむまで10世紀分くらい軽く進んでしまいましたw

 

点が線でつながったし、ハプスブルク家のしたたかさや柔軟さが実感できたし、調べてて楽しかった!横軸としてスペイン継承戦争やナポレオン等周りのごたごたを入れたら線が地図になって広がっていくけど今回はパスー。とりあえず流れや雰囲気が掴めて、登場人物のキャラがつかめたらまあいいかなー。

 

 

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