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前回に引き続き、JCS6つの疑問の残りの4つに答えて行きますー。相変わらず、キリスト教徒の友人にJCS解釈をしているので、JCSファンの方にはアタリマエのこともあるかもしれませんが、そこは読み飛ばしちゃってくださいー。キリスト教徒にとってJCSはこんな印象だったのかーって視点で読んでもらえたら嬉しいです。

 

ちなみに6つの疑問は以下のとおり。

 

【疑問1】イスカリオテのユダはなぜジーザスを裏切ったか?
【疑問2】ジーザスはなぜ死ななければならなかったのか。
【疑問3】マグダラのマリアはどんな位置付け?
【疑問4】キリスト教団的にこの作品ってどうなの?
【疑問5】なんでキリストは復活するのに、ジーザスは復活しないの?
【疑問6】で、結局ジーザスって何なの?

 

===

 

【疑問3】
マグダラのマリアはどんな位置付け?

 

さて、マグダラのマリアがどう関わってくるかですが、まあ、JCSではジーザスの恋人の役目ね(まあ、これはわかったか)。このマグダラのマリアの設定は、「小説聖書」にはなかった気がするけど。彼女が重要なのは、彼女だけがジーザスの教えを理解しているとジーザスに認定されていたこと。

 

映画では、ジーザスが民衆に向かって「ここにいる誰も、栄光が、愛が、何かわかっているものはいない」と言うシーンがあるんですが、このときジーザスは救いを求めるようにマリアを見ている。マリアが「愛=キリスト教の教え」を理解していると、ジーザスは知っていたんだね。(I don't know how to love him♪と言う歌が皮肉だ。。彼女だけが「愛」を理解していたんだから)

 

だから、物語の前半はユダがジーザスの理解者で、後半はマリアが理解者になるわけ。(ゲイの嫉妬の解釈に笑った。。たしかに、タイミング的にそう見える。。)ユダは親友として、人間としての視点から、ジーザスを心配していたけど、自分の理解の範疇を超えるとキレちゃった。マリアは、恋人として、自分の理解の範疇を超えてしまうおおごとになっても、ジーザスを支えつづけた。だから、マリアが、ジーザスに唯一「認定」されたんだね。

 

【疑問4】
キリスト教団的にこの作品ってどうなの?

 

このJCS映画はものすごい当時(親の世代)ブームになったけど、色んなところで上演/上映禁止になったのだ!だって、ユダがキリストの親友だったとか、キリストが神に疑問を投げかけてたとか、売春婦が彼女だったとか、キリスト教団体的には許せなかったのだ!

 

つまり、キリスト教側の人間としては、JCSの解釈はありえない!断固否定!なわけ。しかし、こんな斬新な解釈で舞台を作ったALWとティムライスがすごすぎる。。。(私の中ではALW最高峰はJCSなのだ)


【疑問5】
なんでキリストは復活するのに、ジーザスは復活しないの?

 

最後にジーザスが復活しないのは、ジーザス=人間だからです。まあ、ゲッセマネ♪によると神の子なんですが、この作品中ではジーザスを神々しいものとして描きたくなかったんだろうね。ここで復活しちゃったら、ただの布教ミュージカルだよ。作り手は絶対それは避けたかったんだろうね。

この作品をよく見てると、聖書でキリストのお家芸の奇跡が全く起きない。病人も治さないし(自分で治せ!)、水をぶどう酒に変えたり、死人を生き返らせたり、水の上を歩いたりしない。ミュージカル的には、舞台上で奇跡を起こしたらなんかショーとして面白かったかもなのに!(爆)挙句の果てに、最大の奇跡、復活もしない。(それどころか、ユダの方がが死んだあと復活ばりに登場してテーマソング歌うし!)

それに対して、説教(ありがたいお話)の部分は結構聖書通り。つまりティムライスは、意図的にジーザスの神の子らしさを避けて(ゲッセマネが唯一の「神の子」っぽいシーンだし、しかも反抗してるしw)、それでもジーザスが後世まで語り継がれる理由(お話の内容)を表現したのかな。

 

だから、タイトルもジーザス・クライスト・スーパースター。祭り上げられた人間のスーパースターってことね。「神」云々を理解してるのはジーザスのみ。そのジーザスですら神の全貌は理解できてない。

 

一般人から見たら、ジーザスはただの一過性のアイドルだったわけ。多分、自分が当時その場にいたら、今のキリスト教信者みたいに「神様。。」と真剣に思うんじゃなくて「うわー。有名人キターーー!!!!ホザナヘイサナーーー!!!!!」ってしゅろ振ってたと思う(爆)。民衆ってそんなもんですよ。

 

しかし、ジャポネスク版はなぜか1幕だけど、普通は最後の晩餐の前で休憩が入るよ。なぜ1幕にしたのかわけがわからん。。一度四季見てみた方がいいのかな。実際見たら私は絶賛するかもね。。

 

【疑問6】
で、結局ジーザスって何なの?

 

私が2005年にJCS舞台を初めて見た時のレポに詳しく書いたので、こちらを抜粋してみます。。

 

===抜粋始め==


実は、映画はもう以前に2回見てたんだけど、どうしても好きになれなくて(と言うか意味がわからなくて)、勝手にJCSは私のタイプじゃないと決め付けてたの。今考えると、その理由は大きく分けて四つになると思う。

 

(中略)

 

そして、一番重要な第四点目は、キリスト=人間解釈に納得が行かなかったのね。カヤパやピラトやヘロデはひとくくりで悪者扱いする癖がついてたので、誰が誰かなんてあまり気にしてなかったし、マグダラのマリアがジーザスを愛していた(ジーザスもまたマリアを愛していたかも)っていうのが、全く聖書に書いてないことなので、「間違い!冒涜!」と思ってた。それに、ユダが言ってることは理解できても、死を受け入れたはずのジーザスがなぜユダにあんなに怒鳴ったり、神に恨み言を言ったりするのかが理解できなかった。

 

でも、先週もう一度映画を見てみて、今までわからなかった部分が相当クリアになって、いきなりJCSは私の中で意味不明作品から傑作に格上げになったわけ。多分、私がキリスト教を宗教としてではなく歴史として見られるようになったということと、昔見たときより私が大人になって、ユダのジーザスへの気持ち、ジーザスのユダへの気持ち、マリアとジーザスの関係がもっと理解できるようになったからかな。

 

===抜粋終わり===

 

今となっては宗教になってしまったキリスト教だけど、聖書に書いてあるようにとんとん拍子に物事が運ぶなんてまずありえないし、現実的に考えたら、JCSのようにジーザスが運命と神と群集に翻弄された結果、政治の犠牲者になってしまったというほうが説得力はあるよね。

 

この作品がすごいのは、ジーザスを普通の人間扱いでもなければ、完璧な救世主でもない、その間の扱いをしていること。この人間と救世主のバランスがうまく保たれているから、ストーリーにリアリティが生まれ、こんなにセンセーショナルな内容にもかかわらず、長く支持されてるんだと思う。

 

このストーリーの解釈によると、彼はほんとは神から仕事を任された(たぶん本当の)神の子で、彼の発する言葉は純粋に人々を救うために発せられた。そういう意味で彼は救世主であった。

 

けれど、ローマに支配されたユダヤ人と言う政治的な要素が絡み、ジーザスは自分の意思とは関係なく時代に巻き込まれ、自分の発言は政治的に解釈されてしまう。救世主は人々を救うことは出来ても、自分は救うことは出来ない。

 

それにジーザスは、最初っから自分が3年したら死ぬって覚悟していたにもかかわらず、最後で怖気づいてしまうし(ゲッセマネ)、彼はマリアやユダを人間として愛していたんだと思う。

 

この、人間と救世主の間のバランスがものすごく絶妙で、何度見ても考えされられてしまうよ。キリストは聖書にあるような、万能の神の子ではなくて、人間として生きて苦しんで、最後には人間によって殺された歴史上の人物だった、と言う解釈は、斬新ではあるけど、説得力は十分ある。

 

そういうヘヴィーなテーマをセンセーショナルに扱い、それをこれだけの音楽とパワーで包んで世の中に出したALWとTim Riceは勇気もあるし、アイデアもオリジナルだし、やっぱりすごいと思う。

 

(なんだかまだ解釈の続きが残っているので、続くかもしれません。。どんどん濃くなってすみません。。)

 

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