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2018-11-11 16:16 | カテゴリ:モーツァルトの歴史

一つ前の記事で、モーツァルトの葬儀について解説しましたが、今回は「どこで葬式が行われたのか?」という疑問に答えていきたいと思います。


●葬式の用語と手続き


モーツァルトの葬式、と一言で言っても、いくつか手順がありますし、巨大なシュテファン教会のどの礼拝堂で行われたのかも諸説あります。


まず、葬式の儀式と用語について解説します。


葬式はドイツ語でBestattung, Todesfeier, Begräbnis(埋葬に近い)など、複数の表現があります。また、オーストリアではEinsegnungがBestattungの代わりに使われることもありますし、「聖別する」(聖水をかける儀式)を指すこともあります(プロテスタントではAussegungと呼ばれます)


また、モーツァルトの時代には遺体を安置し、一般弔問を受け付ける、Aufbahrenもありました。


実際の埋葬(灰や遺体を墓に入れること)はBeisetzungといいます。


このそれぞれの段階が、それぞれどこでどのように、だれが付き添って行われたかが諸説あるので、とてもややこしいのですが、以下のように整理できます。


・Aufbahren(一般弔問)は、自宅で12月5日~6日の昼にかけてと、シュテファン大聖堂で12月6日の午後に行ったとされています。


・Einsegnung(聖別の儀式。葬式ミサ)は、シュテファン大聖堂で12月6日に行われましたが、その会場となった礼拝堂に関しては諸説あります(後述)


・Beisetzung(実際の埋葬)は、聖マルクス墓地で、家族や友人の付き添いなく行われたとされています。ただし、当時はかなり遠方の墓地まで家族や友人が徒歩で付き添うのは現実的ではなく、教会の葬式の最後に、教会の地下室(カタコンベ)に「下す」ことで、Beisetzungの儀式の代わりとするという風習があったようです。


●葬式はどこで行われた?


それでは、モーツァルトの葬式がどこで行われたかを検証していきます。


これには二説ありますが、名前の類似性と複雑さが絡み合って生まれた謎なようですので、解きほぐしていきます。


まず、最もよく知られているモーツァルトの葬式があったとされる礼拝堂は、こちらです。


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これは、Kruzifixkapelle(Kruzifixとは、キリストが十字架に掛けられたことを指す)で、隣にある金の十字架が輝く像は、トルコ包囲からの解放を記念して1738年に作られた、Kapistrankanzelです。


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このKruzifixkapelleの中をのぞくと、十字架に掛けられたキリスト像があり、その足元にモーツァルトの記念パネルがあります。


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モーツァルトのパネル


”An dieser Stätte wurde des unsterblichen W. A. MOZART Leichnam am 6. Dezember 1791 eingesegnet. Wiener Schubertbund 1931“


「この場所で、不死のW.A.モーツァルトの遺体が、1791年12月6日に聖別された」(「不死の」とは、キリスト教では、体は死んでも魂は死ぬことはないことから)


自然に考えると、この場所にモーツァルトの棺が運ばれ、しばらく屋外でAufbahren(一般弔問)を受け付けた後、家族や友人が見守る中「聖別の儀式」が行われて聖水がかけられ、最後に下向きの扉が開けられて、教会地下のカタコンベに下すことで、墓地に行かなくともBeisetzungの儀式を形式的に終わらせた、という流れだと推測されます。


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カタコンベへの入り口


カタコンベはTodeskammer(死者の部屋)としても使われたため、遺体はここで墓地行きの馬車を待ち、12月6日の18時以前、もしくは12月7日の朝に、聖マルクス墓地に運ばれたとされています。


●もう一つの礼拝堂


ややこしいことに、シュテファン大聖堂にはもう一つ似た名前の礼拝堂があり、こちらで葬式が執り行われたという説もあります。


その礼拝堂はKreuzkapelle(十字架礼拝堂)。シュテファン大聖堂を入って左側の小部屋で、オイゲン公が埋葬されていることから、Prinz Eugen Kapelleとも呼ばれています。


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Kreuzkapelle入り口


先ほど登場した、シュテファン大聖堂左側外にあるのが、Kruzifixkapelle(磔刑礼拝堂)に対し、こちらはKreuzkapelle(十字架礼拝堂)。ドイツ語話者やカトリック信者にとっては、取り違えても不思議ではありません。また、葬式を外で執り行うという感覚もピンときませんね。


しかし、1791年の時点で、Einsegnung(聖別の儀式)を教会内で行う習慣はなく、許可もされていませんでしたので、個人的には、このKreuzkapelleでの葬式は、Kruzifixkapelleとの取り違いではないかと考えています。


(実際、シュテファン大聖堂が発行している公式ガイドブックでは、KruzifixkapelleのところにもKreuzkapelleと書かれていますし、シュテファン大聖堂の公式サイトでは、Kreuzkapelleは、別名のPrinz Eugen Kapelleと記されています。また、さまざまなサイトで、両者の取り違いが見受けられます。シュテファン大聖堂入って左のKruzifixkapelleと書かれていたり、KapistrankanzelのそばのKreuzkapelleと書かれていたり。。なので、おそらく歴史的にこの二つは名前が似ていることから、取り違いされやすいのではないかと思います)


また、屋内のKreuzkapelleで葬式をした場合、Einsegung「聖別の儀式」は教会の入り口で先に済まさなければならず、カタコンベに下すBeisetzungも、カタコンベの入り口とつながっているKruzifixkapelleに出なくてはなりません。


KruzifixkapelleとKreuzkapelleを行き来して、両方を使用した可能性も無きにしも非ずですが、少なくとも、重要な二つの儀式は、Kruzifixkapelleで行ったと考えるのが自然でしょう。


●聖マルクス墓地への道行き


葬式自体は12月6日であったと、教会の記録に残っていますが、1790年の「衛生法」により、死後48時間経ってから埋葬を認められたので、埋葬自体は12月7日の可能性が高いでしょう。


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聖マルクス墓地のモーツァルト記念碑「嘆きの天使」


気象記録によると、12月6日は穏やかな天気、12月7日は嵐だったとされています。すでに葬式の最後の「カタコンベに下す」Beisetzungの儀式で、遺族の気持ち的には埋葬が済んでいるわけですので、わざわざ翌日の朝嵐の中、墓地行の馬車に付き添うことが必要と考えた人は少なかったかもしれません。


そもそも、聖マルクス墓地は徒歩で付き添うには遠すぎるので、シュテファン大聖堂からSchulerstrasseを通り、Stubentorの門付き添って、最後のお別れをした人たちが、何人かいただけだったはずです。


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モーツァルトが住んだSchulerstrasseの前を葬列は進んだ。


この、大聖堂からStubentorの門まで付き添った人にも諸説あり、コンスタンツェのほかに、ファン・スヴィーテン、サリエリ、ジュスマイヤー、Roser, Orslerが付き添ったとしているのは、信憑性の低いJosef Deinerの手記ですので、実際何人が付き添ったのかはわかりません。


●まとめ


というわけで、モーツァルトの葬式について調べてみました。


シュテファン大聖堂のことについてかなり詳しく調べなければわからなかったのと、モーツァルトの死や墓の謎について触れている記事は多いのに、実際の葬式の場所や、参列者について書かれた文献が少なかったり、ぼかしてあったりで、調べるのにかなり苦労しました。新説も時々出ているようですので、注目していきたいと思います。


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2018-11-08 16:17 | カテゴリ:モーツァルトの歴史

モーツァルトの史実の調査をまとめるという、底なし沼にはまってもう久しいですが、ちょうどモーツァルトの葬儀について質問を受けたので、備忘録的にまとめておきます。


●前提


諸説ある、古い研究と新しい研究は内容が異なる、謎は残っている等、様々な点がある中、どの説が史実に近そうかも検証していきたいと思います。


今回の記事で扱うのは、モーツァルトの死から、シュテファン大聖堂を経て、棺が聖マルクス墓地に到着するまでです。モーツァルトの死因や、お墓の場所など、定番の謎については、今回は触れていません。


モーツァルトの葬儀の日の天気については、さまざまな説があり、検証はされていますが結論は出ていないので、軽く触れる程度にしておきます。


また、参列者等はソースによって異なりますので、諸説あるものを載せておきます。


●モーツァルトの死(自宅)


モーツァルトは、Rauhensteingasse 8にて、1791年12月5日の0時55分に亡くなりました。


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モーツァルト最期の家


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史跡パネル


同日朝から午前中にかけて、Dr. Eduard Guldener von Lobes医師による検死が行われましたが、特に気になる点はなかったとされています。


Joseph Graf Deym von Stritetzがデスマスクを取りますが、コンスタンツェが壊したと言われています(今残っているモーツァルトのデスマスクの信憑性が問われています)


その後自宅で一般弔問(Aufbahrung)があったとされています。その時はカプツィーナ修道僧のようなマント(一説によればフリーメイソンの黒いローブ)を着ていたとされています。


●自宅→シュテファン大聖堂の葬列と参列者


翌12月6日15時ごろ、シュテファン大聖堂へ移動します。


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シュテファン大聖堂


葬列(Trauerzug)は、十字架を持った人が先導し、4人がトウヒの棺を運び、コーラスの少年がいたそうですが、二頭立ての馬車だったという説もあります。教会では鐘が鳴らされたので、ウィーン市民は誰が亡くなったのかわかっていたのでしょう。


参列者については諸説ありますが、いた可能性があるのは、コンスタンツェ(早い段階で体調を崩し、子供たちとその場を離れたという話もあり)、コンスタンツェの姉妹とその夫たち(Josef Lange, Franz Hofer)、ファン・スヴィーテン男爵、モーツァルトの弟子のFranz Jakob Freystätlerとジュスマイヤー, シカネーダー劇団のファゴットとコントラバス奏者のOtto Hatwig, モーツァルトの友人のJohann Georg Albrechtsberger, 音楽家Alselm Hüttenbrenner、サリエリ、シカネーダーの友人で魔笛でタミーノを演じたBenedikt Schack、Kapellmeister Roser, ヴィオリンチェロ奏者Orsler、モーツァルトの行きつけのレストランのウェイターJosef Deinerがいたとされています。(参列者の信憑性については後述しますので、ここに書かれた人が全員いた可能性は低いかもしれません)


シカネーダーは参列していなかったとされています(Nissenの手記による)


Joseph Lange, Franz Hofer, Benedikt Schackは参列のソースは、1857年のMonatsschrift für Theater und Musikです。LangeとHoferはモーツァルトの親戚であり、友人であり、仕事仲間でもあったので、最も近しい男性といえるでしょう。


ファン・スヴィーテン、サリエリ、ジュスマイヤー、Kapellmeister Roser, ヴィオリンチェロ奏者Orsler、Josef Deinerは、教会から墓地行の馬車の付き添いのリストに含まれています。ソースは1856年1月28日、モーツァルトの誕生日100周年を記念したJosef DeinerのWiener Morgenpostに載った手記に基づいています。この手記自体信憑性を疑われていることもあり(葬式の日に大嵐という描写が。。)、そもそもその場にJosef Deinerがいたかどうかも定かではありません。


ほかの人物の参列の真偽については、ソースも不明ですが、Josef LangeとFranz Hoferはコンスタンツェの姉妹の夫ですので、モーツァルトの親戚の男性に含まれ、最も参列していた可能性が高いでしょう。コンスタンツェは体調を崩し、子供たちと共にその場にいなかった可能性もあります。コンスタンツェの姉妹(Aloysia Lange, Josepha Hofer, Sophie Haibel)は、夫たちが参列しているため、参列は控えた可能性があります(特に記録には登場しません)。


また、親族以外では、葬式代を出したパトロン、ファン・スヴィーテン男爵は参列していた可能性が高く、逆に、Albrechtsberger, Freystätler, Otto Hatwig, Anselm Hüttenbrennerに関しては、ソースがはっきりしていません。


また、自宅→教会の葬列と、教会での葬式、教会→Stubentor(墓地へ行く馬車の見送り)で、参列者が異なった可能性もあります。


ちなみに、モーツァルトの葬列の日程と天気に関して謎が多いですが、自宅から教会に移動した、12月6日の天気は穏やかだったとされています(Zinzendorfの手記および天文台の記録による)


(礼拝堂編に続きます)


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2018-07-27 16:12 | カテゴリ:モーツァルトの歴史

モーツァルトのトレードマークとも言える赤いコートの史実について検証していくシリーズ第4段です。

 

目次:

モーツァルトの赤いコートの謎に迫る①赤いコートは実在した?

モーツァルトの赤いコートの謎に迫る②大人サイズの赤いコート

モーツァルトの赤いコートの謎に迫る③男爵夫人におねだりした赤いコート

モーツァルトの赤いコートの謎に迫る④ミュージカル「モーツァルト!」の赤いコートの史実に迫る

 

●ミュージカルで登場する赤いコート

 

それでは、ミュージカル「モーツァルト!」で それぞれの赤いコートがストーリー上、どの場面で登場して、どのようないわれがあるのか、検証していきましょう。

 

ドイツ語版のモーツァルト!は、大きく分けてウィーン初演版、ハンブルク版、ウィーン再演版の三種類があり、日本版はウィーン初演版を元にして、所々他のバージョンの改変を追加しています。

 

★ウィーン初演版(ほぼ日本版と同じ)

 

ではまず、ウィーン初演版を見て行きましょう。

 

「赤いコート」の場面はザルツブルク。時期的にははっきりはしませんが、パリ旅行の前ですので、おそらく1775-77年前半の間ごろ、ヴォルフガング19-21歳ごろだと思われます。この場面で、赤いコートに言及しているのは、以下の歌詞の部分です。

 

[Wolfgang]
Als wir als Klimperkinder
Durch ganz Europa tour'n fuhr'n
Trug ich wenn ich auftrat
Immer den nämlichen Schock-Rock
Ganz à la mode: rot!
[Nannerl]
O ja, ich erinn're mich
[Wolfgang]
Der war ein Präsent...
[Nannerl]
Ich weiss...von der Kaiserin
[Wolfgang]
Doch dann hat er mir nicht mehr gepasst - dumm!
Seither trag ich grau und hab's immer gehasst, drum
Trag ich ab jetzt nur noch diesen hier!
[Nannerl]
Genau derselbe Rock nur grösser!

[Wolfgang]
Sag schon, Kanaille!
Wie steht er mir?
[Nannerl]
Samt und Seide!
Goldne Fäden!
So ein Rock ist nicht für jeden
Die Welt wird sich die Augen reiben
Du bist ein Prinz und wirst es bleiben

 

要約すると、「子供時代にヨーロッパを駆け巡っていた時、いつも真っ赤なコートを着ていた。それは皇后様(=マリア・テレジア)からの贈り物だった。サイズが合わなくなったので、全く同じだがサイズの大きいものを着ることにした。絹でできていて金糸の縁取りだった」となります。

 

また、その後、レオポルトが入ってきて、どこから手に入れた?と聞かれ「博打で勝った金で、自分で買った」と答え、父親に怒られる、という流れです。

 

ここで史実として正しいのは、ザルツブルク時代に錦糸に縁どられた赤いコートを持っていた(家族肖像画に描かれたものが実際存在したとすれば)、ということです。

 

また、史実と異なっているのは、「皇后さまから頂いたコート」は実際は赤ではなく藤色であったということです。モーツァルトが当時から自由になるお金があって、博打ができたかも、疑問の余地があります。演奏旅行費用などで、家族には借金があったとされているからです。

 

この場面は、史実は本当だが、色はフィクションということになりますね。

 

★ハンブルク版

 

ハンブルク版では、「赤いコート」のシーンが完全に削られ、子供時代から大人になってからも、赤いコートについて言及されることはありません。

 

★ウィーン再演版

 

ウィーン初演版とハンブルク版では、神童時代のコンサートは12歳のモーツァルトがパトロンのメスマー博士の前で演奏するという場面でしたが、ウィーン再演版はガラッと変わり、6歳のモーツァルトがシェーンブルン宮殿でマリア・テレジアの前で御前演奏をする設定になっています。

 

それに伴い、マリア・テレジア本人がモーツァルトに「赤いコート」を下賜する場面が登場します。Der Prinzenrock meines Sohnes Maximiliian. Er passt ihm nicht mehr, und jetzt sollst du ihn haben.(私の息子のマキシミリアンのコートよ。もう合わなくなってしまったので、あなたにあげましょう)というセリフと共に、アマデが受け取り、その場で袖を通します。

 

この場面で史実と合致しているのは、6歳の時にシェーンブルン宮殿でマリア・テレジアの前で演奏したこと、そして、マキシミリアンのお下がりのコートをもらったことです。ただ、今まで見てきたように、史実ではコートの色は赤ではなく藤色でした。

 

12歳メスマー邸のコンサートも、6歳マリア・テレジア御前コンサートも、どちらも史実通りです。再演で改変されたのはおそらく、ウィーンの観光地や有名なエピソードを取り入れるためだったのではないかと思います。

 

参考記事:舞台はウィーン! モーツァルトとメスマー博士③神童モーツァルトはいつどこで誰のために演奏した?

 

・まとめ

 

というわけで、ウィーン初演場、再演版、どちらも「マリア・テレジアからもらったのは赤いコート」という前提で話が続きますが、実は史実とは違ったということがわかりますね。

 

しかし、あまり知られていない「マキシミリアンのお下がり」という事実が入っていることからも、クンツェ氏は「実際は藤色であった」事を知っていて、敢えて話を分かりやすくするために、赤いコートと改変したのではないかと思います。

 

また、有名なBarbara Kraftのモーツァルトの肖像画のおかげで、モーツァルトといえば赤いコートというイメージが定着していますので、ここで史実に忠実に藤色にしてしまうのも、逆に野暮かもしれません。「赤いコート」のシンボル性や知名度を優先した、クンツェ氏の判断だったと推測されます。

 

こんな風に、「赤いコート」の史実とフィクションを検証してきましたが、史実がわかればわかるほど、改変部分の妙が見えて来たり、クンツェ氏の意図が見え隠れして、作品の理解が進む気がします。

 

また、色々とモーツァルトの史実を検証していきますので、お楽しみに!

 


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2018-07-24 16:12 | カテゴリ:モーツァルトの歴史

モーツァルトのトレードマークとも言える赤いコートの史実について検証していくシリーズ第二段です。

 

目次(記事が公開されたらリンクがつながります):

モーツァルトの赤いコートの謎に迫る①赤いコートは実在した?

モーツァルトの赤いコートの謎に迫る②大人サイズの赤いコート

モーツァルトの赤いコートの謎に迫る③男爵夫人におねだりした赤いコート

モーツァルトの赤いコートの謎に迫る④ミュージカル「モーツァルト!」の赤いコートの史実に迫る

 

●ヴァルトシュテッテン男爵夫人からもらった赤いコート

 

上の家族の絵の1,2年後の1782年9月、ウィーンにやってきたモーツァルトは、街で見かけた赤いコートに心を奪われ、パトロンだったヴァルトシュテッテン男爵夫人にこんな手紙を書きます。

 

wegen dem schönen rothen frok welcher mich ganz grausam im herzen kitzelt, bittete ich halt recht sehr mir recht sagen zu lassen wo man ihn bekomt, und wie theuer, den daß hab ich ganz vergessen, weil ich nur die schönheit davon in betrachtung gezogen, und nicht den Preis. – den so einen frok muß ich haben, damit es der Mühe werthe ist die knöpfe darauf zu setzen, mit welchen ich schon lange in meinen gedanken schwanger gehe; – ich habe sie einmal, als ich mir zu einem kleide knöpfe ausnahm, auf dem kohlmark in der Brandauischen knöpffabrique vis a vis dem Milano gesehen. – diese sind Perlmutter, auf der seite etwelche weisse Steine herum, und in der Mitte ein schöner gelber Stein. – Ich möchte alles haben was gut, ächt und schön ist!

http://dme.mozarteum.at/DME/briefe/letter.php?mid=1263&cat=3

 

「あの赤いコートは、私の心を不思議にくすぐります。どこで買えていくらくらいするのはは忘れましたが、それは、値段ではなく、その美しさばかりに気を取られてしまったからです。

 

あのようなコートはぜひ手に入れなければなりません。長い事思いを温めていたボタンを付ける価値があるからです。(中略)このボタンは、真珠貝で、周りは白い石で飾られ、真ん中には美しい黄色い石がはめてあるんです。

 

私は、良いもので、本物で、美しいものはなんでも欲しいんです!」

 

そして、そのコートを実際に男爵夫人に買ってもらう約束を取り付けたモーツァルトは、すぐに喜びの手紙を出します

 

Allerliebste, Allerbeste, Allerschönste,
Vergoldete, Versilberte und Verzuckerte,
Wertheste und schätzbareste
Gnädige frau
Baronin!

und das war, mich zu bedanken daß sich Euer gnaden gleich so viel Mühe wegen dem schönen frok gegeben – und für die gnade mir solch einen zu versprechen!

 

 

「最も素敵で、最高で、最も美しい、金をかぶせて、銀をかぶせて、砂糖もかぶせた、最も高貴で、最も尊敬すべき、慈悲深き男爵夫人どの!

(中略)

あの美しいコートに、あれほど骨を折っていただき、私に一着約束して下さった事に、お礼を申し上げることでした。」

(この手紙は全体的にものすごくテンションが高く、モーツァルトの飛び上がるような喜びにあふれています。)

 

 

・・とこんな風に、モーツァルトはウィーンで、ヴァルトシュテッテン男爵夫人に赤いコートを買ってもらいました。時系列的に考えると、家族の肖像画のものと、このウィーンで買ってもらったコートは別物ということになりますね。

 

これを、「第四の赤いコート」とします。

 

●「第四の赤いコート」と発見された肖像画

 

このヴァルトシュテッテン男爵夫人にもらった赤いコートがどのようなものであったのかは、近年までわかっていませんでした。

 

なにしろ、モーツァルトの肖像画だと確実に言えるものは少なく、その中でも大人の姿でカラーのものは、上の家族肖像画と、ランゲの未完の肖像画くらいしかなかったのですから、探しようがありませんでした。

 

ところが、2008年3月になって、モーツァルトの肖像画が新しく発見され、大ニュースになりました。

 

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File:Hagenauer Mozart mid-1780s press quality.jpg - Wikimedia Commons

 

以下の記事によると、この絵は、「第一のコート」を着た12歳のモーツァルトの絵を所有していたのと同じ、父レオポルトの友人で、ザルツブルクの家の家主のハーゲナウアーのコレクションの中の一枚で、モーツァルトのホンモノの肖像画であると確認されています。

 

この絵が描かれた時期は、1780年代中頃とされ、上記のヴァルトシュテッテン男爵夫人への手紙にあるボタンに似た物が付いていることから、これがまさに「第四のコート」であるとも、以下の記事に書いてあります。

 

New Wolfgang Amadeus Mozart portrait found - Telegraph

 

●モーツァルト死亡時の財産目録

 

また、1791年にモーツァルトが無くなった時の死亡目録にも、赤いコートが記載されています。おそらく、この「第四のコート」を死亡時まで手放さずに、大事に持っていたのでしょう。

 

英訳版のリストですが、スプーンや靴、衣装に混じって6行目に、red cloth dittoとあります。dittoとは同上という意味ですので、「赤い布製のコートとベスト」ということになりますね。(他に白と青のコートとベストのセットなど、沢山の衣装も持っていたようです)

 

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Mozart: A Documentary Biography - Otto Erich Deutsch p585

 

これで、モーツァルトが大人になってから来ていた赤いコートのうちの一つは実在して、絵画も残っていることがわかりました。

 

●ウィーンのモーツァルトハウスに展示されている赤いコート

 

実は、ウィーンのモーツァルトハウスに、赤いコートが展示されています。ここは実際に行ってみると、特に説明もなく、オーディオガイドでは上記の男爵夫人への手紙の内容を聞くことができますが、実はこれはレプリカで、上記の第一から第四のどのコートにも似ていません。

 

しかし一応、公式の博物館に展示しており、通常撮影不可ですが、この日は特別に撮影可だったので、資料として貼っておきます。

 

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このコートは、実在していたわけではない可能性が高いですが、ミュージカル「モーツァルト!」日本版のポスターのヴォルフガングや、ウィーンの舞台版のアマデが着ている赤いコートは、おそらくこのデザインを元にしていると思われます。

 

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ウィーン版のアマデの着ている赤いコート。宣伝用の動画撮影のYoutube動画より切り出し。

 

(次は、ミュージカル「モーツァルト!」に登場する赤いコートとその出所を検証します)

 


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2018-07-21 06:12 | カテゴリ:モーツァルトの歴史

モーツァルトのトレードマークとも言える赤いコートの史実について検証していくシリーズ第二段です。

 

目次(記事が公開されたらリンクがつながります):

モーツァルトの赤いコートの謎に迫る①赤いコートは実在した?

モーツァルトの赤いコートの謎に迫る②大人サイズの赤いコート

モーツァルトの赤いコートの謎に迫る③男爵夫人におねだりした赤いコート

モーツァルトの赤いコートの謎に迫る④ミュージカル「モーツァルト!」の赤いコートの史実に迫る

 

●14歳ごろのモーツァルト

 

こちらの、14歳で描かれた以下の絵では、モーツァルトは赤いコートを着ていますが、服のデザインは上のものとずいぶん異なります。上の12歳のモーツァルトの上着より、こちらの方が数段豪華です。この絵は1770年にイタリアのヴェローナで描かれたものです。

 

MozartVeronadallaRosa_thumb[1]

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:MozartVeronadallaRosa.jpg

Saverio Dalla Rosa January 1770(14歳)

 

これは、上の12歳の時の絵よりずっと有名ですし、本人の絵であることが確定していますが、このコートの贈り主はわかっていません。

 

既にこのころには、赤いコートがトレードマークになっていたのかもしれませんね。これを、当記事では「第二の赤いコート」とします。

 

●大人になったモーツァルトの赤いコート

 

こちらはモーツァルトの最も有名な絵で、赤いコートを着ています!モーツァルト=赤いコートの印象を植え付けた張本人の絵と言えそうです。

 

408px-Wolfgang-amadeus-mozart_1_thumb[2]

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Wolfgang-amadeus-mozart_1.jpg

1819: Barbara Kraft commissioned by Joseph Sonnleithner


しかしこの絵は、モーツァルトの死後28年もたった後、モーツァルトの収集家Joseph SonnleithnerによってBarbara Kraftが依頼されて描いたもので、生前の絵ではありません。

 

この絵を描くときに、Kraftはモーツァルトの姉ナンネールから資料としていくつかの絵のコピーを受け取っていますが、その中でナンネールが一番高く評価していたのが、この絵です。

 

800px-Croce_MozartFamilyPortrait_thumb

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Croce_MozartFamilyPortrait.jpg

circa 1780 Johann Nepomuk della Croce


この絵は、モーツァルトが22歳だった1780年頃に、故郷のザルツブルクで描かれたものです。母親はすでに亡くなっているので、肖像画として登場しています。

 

こちらの絵のモーツァルトを拡大した物がこちら。

 

800px-Croce_MozartFamilyPortrait - crop_thumb[2]

 

Kraftのものと表情や背筋の伸ばし方は少し異なりますが、赤いコートや髪型など、細部を参考にしたことは見て取れますね。

 

こちらのコートが最も有名なもので、「第三の赤いコート」とします。但し、モーツァルトが実際にこの赤いコートを所有していたのか、画家の想像かはわかっていません。

 

(次は、ヴァルトシュテッテン男爵夫人におねだりして買ったもらった赤いコートが登場します)

 


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2018-07-18 16:12 | カテゴリ:モーツァルトの歴史

「モーツァルトといえば赤いコート」というのは、モーツァルトを知る人ならだれでも思い浮かべる、トレードマークです。

 

408px-Wolfgang-amadeus-mozart_1_thumb[5]

 

しかし、モーツァルトはどのような経緯で赤いコートを手に入れたのでしょうか?また、赤いコートはどんな見た目で、実際何枚あったのでしょうか?

 

調べていくうちに、モーツァルトの赤いコートへのこだわりと愛着が見えてきました。

 

●マリア・テレジアにもらったコート?

 

以前記事でも書きましたが、6歳のモーツァルトがマリア・テレジアの御前演奏の時にもらったのは、ミュージカルに出てくるように赤いコートではなく、藤色(ドイツ語でlila)のコートです。

 

この時に4歳半年上のナンネールもピンクのドレスをもらっています。モーツァルトがもらったのは、マリア・テレジアの息子マキシミリアンのお下がりだったと言われています(当時皇室から一般人へ、お下がりが下賜される習慣があった)

 

その時の父親、レオポルトの手紙には、こう書かれています。

 

„schickte die Kayserin durch den geheimen Zahlmeister [Johann Adam Mayr], der in galla [Gala] vor unsere Hauß gefahren kam, 2 Kleid: eins für den buben und eins fürs Mädl“

 

「皇后さまが、ガラコンサートの日に馬車でやってきた見知らぬ会計係(Johann Adam Mayr)を通じて、一つは男の子用、もう一つは女の子用の二つの衣装を贈ってくださった」

 

„Wollen Sie wissen wie des Woferl Kleid aussieht? – Es ist solches vom feinsten Tuch liloa=Farb ... Es war für den Prinz Maximilian gemacht ..(1762年10月19日の手紙)

 

「ヴォルフェル(モーツァルトの愛称)の衣装はどんな風だか知りたいですか?最も高級な藤色の布で、マキシミリアン王子のために作られたものだったのです」

 

こちらが、その翌年にザルツブルクで描かれた、モーツァルトとナンネールの姿です。

 

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Datei:Wolfgang-amadeus-mozart 2.jpg – Wikipedia

File:Maria Anna Mozart (Lorenzoni).jpg - Wikimedia Commons

 

また、モーツァルト7歳の時にパリで描かたこちらの有名な絵も、同じ衣装を着ていますね。

 

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File:Mozart family crop.jpg - Wikipedia

というわけで、6歳のころにモーツァルトはまだ赤いコートは持っていず、一張羅はこのマリア・テレジアに下賜された藤色のコートだったと言えます。

 

●12歳ごろのモーツァルト

 

こちらの絵は、現在確認されている中でモーツァルトが赤い上着を着ている最初のものです。この絵は2005年3月にスイスで発見された絵で、1768年12歳ごろのモーツァルトをウィーンで描いたものではないかと言われています。

 

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Bilderstrecke zu: 250. Geburtstag: Eindeutig Mozart - Bild 7 von 31 - FAZ

 

比較的最近発見されたもので、当時は大きなニュースになりました。2006年のモーツァルトイヤーでは、ウィーンで展示されていた実物を、私も見に行ったことがあります。

 

この時に着ていたコートを、「第一の赤いコート」としますが、これは他のものと比べてあまり豪華でもなく、ただの「上着」だったかもしれませんね。また、この絵が本当にモーツァルトであるかは、他の絵と比べてまだ100%とは言えず、色々と疑問点が残るコートです。

 

(次の記事は、大人サイズの赤いコートが登場します)

 


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2018-02-27 16:11 | カテゴリ:モーツァルトの歴史

以下の記事は、2017年4月にシカネーダーを見た帰りに、懐かしいレストランでディナーして、帰宅途中に見た景色です。

 

これを記事に残しておきたかったのは、この日の夜の散歩がきっかけて、モーツァルトゆかりの地の調査熱に火が付いたから。フラフラ街を歩くだけで、こんなに歴史に出会えるんだ!って感動した夜の記録です。

 

===

 

魔法にかけられたような不思議な出会いのある夜。気まぐれにいつもと違う道でウィーン旧市街を歩いてたら、モーツァルトゆかりの建物に二つも遭遇。片方は前から知ってた建物だったけど、もう一つは全くの偶然。ウィーンの夜の魔法。

 

この小道を通ったら、魔法にかかった。アムホーフからアムホーフ教会の裏に通じる道。この小道の脇に、モーツァルトが演奏した現存の建物があることは、フィアカーの御者のおじさんから聞いてい知ってた。

 

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夜のウィーンでこんな小路に迷い込んでみる。 

 

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ちょっと女性一人で歩くのは危険な感じ。誰かと一緒に歩いた方がよさそう。

 

これも同じ一角。アムホーフ教会はファサードが堂々としてるのに、裏に回ると細い石畳のクネクネ道。教会の裏にこんな掘っ立て小屋みたいなの(昼間はレトロな雑貨屋かなにか)がくっついてて、なんの時代にいるのか本当にわからなくなる。 

 

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夜のペーター教会。 この左側の建物を歩いていたら、一緒にいた人が「ここにもモーツァルトって書いてあるけど?」と言い出した。史跡パネルを読むと、「ここにモーツァルトが住んでいた」って書いてある!さっきモーツァルトのパネル一個見たところなのに?モーツァルト神出鬼没じゃない?

 

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一時期毎週のようにここにある溜まり場に通ってた。グラーベンから続きの細い小道Naglergasseは思い出たっぷり。 

 

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Naglergasseからエステルハージーケラーを覗いて。

 

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グラーベンとペスト記念塔。

この時は知らなかったけど、グラーベンにもモーツァルトは二か所に済んだことがある。

 

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日本のテレビでもよく紹介される、チョコレート屋さんレシャンツの閉店後のショーウィンドウ。ボタン屋だった店をチョコレート屋さんとして使っている内装はとってもカワイイ。イースターの飾り付けも華やか。

 

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●まとめ

 

というわけで、何気ない10分ほどの夜の散歩でしたが、私にとっては驚きの発見の連続でした。普段から劇場以外のところを夜フラフラすることもあまりないので、10年住んだ町でもかなり新鮮な体験でした。

 

この夜がきっかけで始まった調査も、ほぼ1年越しでほぼ終わりに近づいてきました。これから少しずつ、このブログでもウィーンのモーツァルトゆかりの地をご紹介していけたらと思います。

 


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2018-02-21 16:19 | カテゴリ:モーツァルトの歴史

シュロス・ホーフ宮殿についての記事を書いたんですがが、いつ見てもため息もののこのSala terrena。庭に出る手前の部屋です。元々は奥の扉のところの様に、金の装飾だったのですが、修復の際に元々金だった部分は灰色に置き換えられています。

 

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この内装を担当したのが、Alberto Camesinaというイタリア人。この名前どこかで聞いたぞ?と思ったら、モーツァルトが住んでた現モーツァルトハウス博物館に、モーツァルの前に住んでた人だ! 

 

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モーツァルトハウス

 

Alberto Camesinaは、有名な内装家で、バロック時代の建築家Johann Bernhard Fischer von ErlachやJohann Lukas von Hildebrandtの内装の仕事をしていたので、作品はたくさん残っています。

 

この人はイタリア出身で、ザルツブルクでミラベル宮殿やレジデンツの仕事をした後ウィーンへやってきました。モーツァルトと似たパターンですね。

 

ウィーンでは、ホーフブルク、ベルヴェデーレ、ペーター教会、カールス教会の主祭壇、プルンクサール等の歴史に名を残す建物の内装を手掛けました。モーツァルトがコロレドの部下として滞在していたドイツ騎士団の館の教会の内装(ほぼゴシックに見えますが、バロック時代)も彼が手掛けたので、やはり同時代の芸術家同士、色々な接点がありますね。

 

そして、このCamesinaがモーツァルトハウスに住んでた時に、シュロス・ホーフの内装も仕上げていて、上記の美しい部屋を完成させています。

 

●モーツァルトハウスの謎の豪華な小部屋

 

また当時、自宅をショールームの様に使っていたので、部屋の一部を超豪華な大理石にリフォームしました。一般人の部屋なのに、ここだけやたら豪華なのは、そういうわけなのですね。

 

このCamesinaの後にここに入居したモーツァルトは、この部屋を寝室して使っていたと言われています。

 

800px-Secretary_Kerry_Toured_the_Mozarthaus_Museum_in_Vienna

Kurs:Welterbe, Kulturgüterschutz und Kommunikation (Sommeruniversität 2016)/Arbeiten/Musikerwohnungen in Wien: Mozarthaus Wien – Wikiversity

 

モーツァルトハウスの他の部屋は、下の写真みたいにシンプルなので、このショールーム部屋だけやたら豪華で、びっくりします。モーツァルトも一部屋の小部屋とは言え、貴族級の内装に囲まれ、貴族気分を味わったのかもしれませんね。

 

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Mozarthaus Vienna

 

しかし、ホーフブルクやシュロス・ホーフ、ベルヴェデーレ宮殿を飾った内装家の作品を見上げながら眠るなんて、最高の贅沢ですね、モーツァルト。。

 

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Mozarthaus Vienna

 


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2018-02-19 16:13 | カテゴリ:モーツァルトの歴史

ミュージカル「モーツァルト!」では、モーツァルト作曲のオペラやコンサート曲が多く挿入されていて、元の曲を知っていたらさらに楽しいですね。

 

有名どころでは、オペラ「魔笛」の引用も沢山ありますし、他にもBGM的にモーツァルト本人の作曲した曲が使われています。

 

モーツァルト!の新しい全曲楽譜には、原曲の曲名とその楽譜まで入っているので、ミュージカルファン兼モーツァルトファンの人は見逃せません!私も、挿入曲の出典知りたかったので助かります! しょっちゅう全曲楽譜のページをめくっては、新しい発見に声を上げています(笑)

 

モーツァルト!全曲楽譜

 

この楽譜に関する詳しい記事はこちら

舞台はウィーン! WMW:「モーツァルト!」全曲楽譜入荷しました!

 

●御前演奏の曲は?

 

試しに、一番最初のマリア・テレジア御前コンサートの出典を見てみたところ、KV24との記載が!何度も何度も聞いた曲なのに、やっとなんの曲かわかった!

 

Youtubeで曲も聞けます。→https://youtu.be/iN5N4oN2QbY 聞き流してたら、3分辺りからあの聞き慣れたフレーズが流れてきた時の、おー来た来た来た感スゴイよ!この感動体験は全曲楽譜おかげ!

 

この曲弾きたい!ってピアノの先生に見せたら、音符が多すぎて私にはまだ無理と言われました(笑)いつか上達してこれをスラスラ弾いて見せるぞ!

 

●史実との関係

 

しかし、KV24は1766年の作品なのでモーツァルト9歳。マリア・テレジア御前演奏は6歳なのでズレはある。

 

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6歳の時のモーツァルト(ウィーンでマリア・テレジアの御前演奏の直後にもらった水色のコートを着て)

 

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6-7歳の時のモーツァルト(パリ)

 

 

一応言っておくと、ミュージカル「モーツァルト!」と史実のズレはいくつかあって、私はそれを発見しても、別にあげつらうつもりはありません。クンツェ氏とリーヴァイ氏は絶対史実知ってて改変してるわけだから、改変箇所を見つけて、その理由を推測するのが楽しい!

 

あともう一つ出典がわかって狂喜乱舞したのが、「神よなぜ愛される」の前で、コロレドがが楽譜読みながら酔いしれるあの曲!「皇帝ティトーの慈悲」だった!!ティトー好きだから嬉しい!!(そのくせフレーズ覚えてないw)そして、ティトーとコロレドを微妙に重ねてるのに愛を感じるわ。。

 

しかし、年代を見ると、ティトーはKV621で1791年(モーツァルトが死んだ年の夏)。「神よなぜ愛される」は1784-5年と推測される(参照記事:舞台はウィーン! モーツァルトとメスマー博士⑧まとめ)から、また時間軸にズレがある。それでも、コロレドにティトーをぶつけてきたのは改変の妙! 変に史実を守るより、こんな風に引用でキャラのイメージを強調する方が好きだなー。

 

ちなみに、2幕最初のヨーゼフ2世御前オペラは、旧ブルク劇場の「後宮からの誘拐」初演で、これは史実通り。ただ、タイミング的には結婚の後で初演だったから、次のシーンでコンスタンツェとまだ付き合ってるのは時間軸がズレてる。盛り上がりを一幕最初に持ってきたかったから改変したのね。

 

●まとめ

 

というわけで、こうやって、どの場面でどのモーツァルトの曲が使われているかがわかると、更に作品の奥深さが楽しめます!

 

史実を改変している意味、物語のために時系列をどのくらいいじっているのかなど、史実のズレを発見すると、リーヴァイ氏がその改変にどのような意味を持たせたかったのかが、見えてくる気がします。

 

というわけで、この全曲楽譜、とってもとってもお勧めです!!原曲が知りたい人、全ての謎の答えがここにありますよー。

 

モーツァルト!全曲楽譜

 


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2018-02-17 16:52 | カテゴリ:モーツァルトの歴史

子供時代に完全に挫折したピアノですが、長男がレッスンを始めたのをきっかけに、私も超初心者から脱するべく、去年の秋ごろからピアノレッスンを始めてみました。

 

歌とフルートはやっていたので、ト音記号は読めるレベル。どちらもメロディだけの楽器なので、和音とかハモりとかへ音記号とかからきし。そんなレベルが、半年ほどで童謡や子供向けアニメの曲なら耳コピして左手を付けられるようになりました!!

 

理論の方も一緒に学んでいるのですが、ピアノの世界って奥深い!視野が一気に広がった感じです。

 

私のモーツァルト調査ブームの中、課題曲がモーツァルトのパパ→モーツァルト本人という、モチベーション爆上げの選曲。しかし、初心者にはハードル高すぎる!!

 

●モーツァルトの練習曲

 

2017年10月ごろのモーツァルトのメヌエットが課題曲で、短いのに四苦八苦して練習してたんですが、KV.6と知ってビックリ!!6だよ6!めっちゃ初期だよ!6歳の時の作品!今の長男の年だよ!1週間かけても私、半分も楽譜読めなかったよ!(笑)

 

 

モーツァルトがウィーンのどの建物でどの曲を作曲したかを調べてる途中なんだけど、このKV6のメヌエット1(私の練習曲)は、1763年ブリュッセルでレオポルトの手により記録されている。モーツァルト7歳。練習始めた時点では、今の私には、引きこなすのにまだ3週間はかかりそうと思ったら、結局先生から合格もらえるのに2ヶ月かかりました(苦笑)

 

しかし、7歳で既に、こんなに一発で聴いてモーツァルトとわかる曲を作ってたんだ。。特徴って面白いなー。

 

●何の楽器を使った?

 

しかし、結構両手ともオクターブ移動するし、大人の私の指でもきっちり鍵盤動かすのが難しい幅の広さ。6,7歳の子供の指でちゃんと弾けるのかな?と思ったら、ツイッターで「モーツァルトの初期はハープシコード(=チェンバロ)だったかも」と教えていただいた。

 

モーツァルトは実際なんの楽器を使ってたのかな?って調べたら、また私好みの面白い事実が。。モーツァルトの時代は、ハープシコードからピアノへの過渡期で、どちらもKlavierと呼ばれていたので、どの曲がどれとは言いがたいものもある。

 

曲名に「クラヴィーアのための」って書いてあるのは、そういうことだったのかー。Klavierの直訳はピアノだけど、当時の感覚でKlavierって言われても、ハープシコードかピアノなのか判別できないから、クラヴィーア(=ハープシコードORピアノ)という表記しかできないんだね。

 

一応、子供時代から10代半ばまではハープシコードだったとされてるので、初期のKV6なんかはハープシコードだろうな。その後はピアノだったかも。それにピアノだとしても、今のピアノとかなり違ったらしい。

 

●ハープシコードモードで弾いてみる

 

早速モーツァルトの練習曲を、電子ピアノのハープシコードで弾いてみたら、なんか感動!何このタイムトリップ感!ウィーンでモーツァルトをハープシコードで弾いてるよ私!(笑)

 

ピアノは鍵盤を叩く早さで強弱がつくけど、ハープシコードは音の強弱は一定。ピアノは打弦楽器(ハンマーで弦を叩く)けど、ハープシコードは弦を弾くので弦楽器。音の強弱はつけられない。

 

だから、子供の指で弾いても、強弱的に大人に劣ることはなかったと思われる。けど、鍵盤を叩く強さで曲の盛り上がりを表現できないので、代わりに盛り上げたいところでは、音符を多くして(四分音符が多い曲なのに、盛り上がりだけ八分音符多め)、豪華さを出したんだとか。

 

当時の楽器で弾くっていうのも、音楽の魅力の一つだなぁ。

 

●当時のピアノはどこにある?

 

ベートーヴェンのピアノはパスクヴァラティハウスでこないだ見た。モーツァルトのピアノはザルツブルクの生家に行かないとないのかな(晩年のピアノがある)。とりあえずウィーンの楽器博物館か、産業技術博物館の上の楽器ルームに行けば、昔のピアノに触れられそうだな。

 

以前こんな記事を書いたのを思い出した。

舞台はウィーン! モーツァルトが弾いた当時のチェンバロの音色が聞けるCD①お問い合わせ編

舞台はウィーン! モーツァルトが弾いた当時のチェンバロの音色が聞けるCD②謎解き編

 

この記事の特に謎解き編、久々に読んだらやばいね。。私の歴史ほじくり趣味全開w 特にロンドンからドイツ、更にポーランドからチェコに渡って隠されたチェンバロにロマンを感じるわ。。

 

あとチェンバロといえば、ミュージカルのシカネーダーで、ことある事にチェンバロちゃららんからのレチタティーヴォが入るんだが、シカネーダーもまた、チェンバロからピアノへの過渡期の人物なんだな。とは言っても、モーツァルト晩年の魔笛前後は、既にピアノ優勢なんだろうけどね。

 

●おまけ、我が家の電子ピアノ

 

息子が2017年の春先にピアノレッスンを始めたので、夏ごろにヤマハのクラヴィノーヴァを、清水の舞台から飛び降りるつもりで買いました。モデルチェンジで2300ユーロが1750ユーロになってた♪

 

このピアノの元を取るために、私もピアノレッスン始めたようなものですwイヤホンついてるから子供たち寝たあとで練習できるし、音めっちゃキレイで大満足。我が家の生活スタイルからすると、本物のピアノ買ってもここまで使うことはなかったな。

 

我が家の電子ピアノ、今年買ったものの中ではダントツ一番高くてびっくりしたんだが、使う頻度でいうとかなり元取ってる気がしてきた。長男は毎日15-20分、私も週5回20-30分は練習する。夫も2日に一回はストレス発散のために30分弾いてて、ピアノが取り合いになることも。

 

ピアノが楽しいという気持ちがやっとわかるようになってきたし、モーツァルトの調査のモチベーションも上がるので、なんとか時間を見つけて、練習がんばろうと思います。 

 


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2018-02-15 16:20 | カテゴリ:モーツァルトの歴史

本日のモーツァルト謎解き宝探し。ほぼすべてのウィーンにあるモーツァルト関連の史跡パネルを調査し尽くしたわけですが(ブログには順次書いていきます)、気になるパネルが一つあった。10年前と20年前の本にしか書いてなくて、ネットには全く上がってないパネル。この2冊の本には載ってて、今は撤去されたものもあるので、半信半疑。

 

モーツァルトが「朝のコンサート」を行ってた場所で、ベートーヴェンもシューベルトも弾いてる。2冊とも写真が載ってなく、場所も謎かけみたいに分かりにくい。8割方現存しないと思われた。広大なアウガルテン公園のどこかにある、くらいのザックリ感。ネットで探しても、違うパネルしか出てこない。

 

なぞかけみたいな本によると、「当時1階建てだった建物の左側」らしい。少年合唱団の寄宿舎か陶器工房のどちらかだが、少年合唱団の方は普段は入れない。陶器工房はいくら手持ちの写真を拡大しても、記念パネルは見えない。行き当たりばったりで現地で探すしかない。

 

●現地調査

 

ちょうど歯医者の近くだったので、アウガルテンの調査に行ってきた。庭園の裏口から入り、木立を抜けて陶器工房の裏手に出る。建物の右側(正面から見た左)に回り込むと、カフェの裏口があり、その横に史跡パネルあった!!写真でも見たことなかったから感動!まさに宝物見つけた気分!

 

これがその、アウガルテンにあるモーツァルトとベートーヴェンとシューベルトの史跡パネル!ネットに上がるのは初かもしれない。それぞれ「朝のコンサート」のプログラムで、この建物で演奏したことが書かれている。モーツァルトのは、会場のこけら落とし的なコンサートだった。

 

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「この建物で、1782年からアウガルテンコンサートが開かれ、以下の人物たちの出演により記念すべきものとなった。

 

モーツァルト 1782年5月26日 

交響曲 KV338, 二大のピアノのための協奏曲 KV365

ベートーヴェン 1803年5月24日

クロイツァーソナタ OP47(初演)

シューベルト 1824年5月1日

夜うぐいす(Die Nachtigall)四重唱 D724

 

モーツァルト協会、ベートーヴェン友の会、シューベルト団体 ウィーン1973」

 

(設置団体名は仮訳です)

 

 

この史跡パネルの見つけ方は、この写真がヒント。

 

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正門から見たアウガルテン陶器工房。いつも水平に撮ったつもりでも傾いてるw この建物で、モーツァルトとベートーヴェンとシューベルトが演奏した。主催者のIgnaz Jahn氏には、その後Cafe Fuarenhuberのコンサートでもお世話になってる。 

 

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しかし、かなりトリッキーな所にあるとはいえ、なんでここの史跡パネルだけ、どのデータベースにも載ってないんだろう。アパートの共有スペースで、住民じゃないと見れないとか、もっと見つけにくいパネルもたくさんあるのに。二冊の本のおかげで見つけられたよ。。著者の方ありがとう!

 

ちなみにこの2冊の本、1996年と2006年に出版されてるんだけど、どちらも廃版で、中古で入手した。今の私のバイブルw これで、ウィーン市内のモーツァルトの史跡パネルの調査、撮影は完了!しかしまだ調べたいことは結構たくさんあるw

 


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2018-02-07 16:33 | カテゴリ:モーツァルトの歴史

ウィーンの町を散策していると、急に見慣れた名前が史跡パネルに書かれていて、目に飛び込んでくることがあります。

 

歴史的な建物に付けられた史跡パネルは、その建物に歴史上の人物が住んでいたり、訪れたりしたことがあることを示しています。

 

全てのゆかりの建物に史跡パネルが付くわけではなく、パネルがなくても重要な建物の事もあれば、パネル自体が間違っていることもあり、注意が必要ですが、街歩きの楽しみの一つとして、宝探し気分で史跡パネルとの出会いを楽しむのも、ウィーンの醍醐味の一つです。

 

ある日の観劇の帰り、ふと見上げたところに、モーツァルトの史跡パネルを見つけたのが、私の史跡パネル宝探しの始まりでした。

 

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それがこちらの史跡パネルです。

 

===

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト 1756-1791

1762年の10月第二週に、この建物において、この町で聴衆の前で初めて演奏を行った。彼の故郷となり、また運命となった、この町で。

===

 

と書いてあります。

 

「この建物でモーツァルトがウィーン初演奏?6歳でマリア・テレジアの前で御前演奏してたはずなの、それより前なの?」と思って、そこから調査が始まりました。

 

モーツァルトは、6歳、12歳、16歳と三度ウィーンを演奏旅行で訪れた後、1781年から10年間ウィーンに住みました。

 

1762年の訪問は6歳の時で、10月6日にザルツブルクからウィーンに到着しています。10月第二週に演奏とありますが、おそらく9日の事だったと思われます。シェーンブルンでの御前演奏は13日です。ウィーンに到着して三日後にはコンサートを始めたということになりますね。このコラールト宮でも、シェーンブルンと同じように、ナンネールとモーツァルトが共演したそうです。

 

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コラールト宮外観。建物の右下のアーチは通り抜けでき、時計博物館方面につながっています。フィアカー(馬車)の定番ルートでもあります。

 

 

モーツァルトを招待したのは、この館の名前にもなっているコッラールト侯爵で、コンサートにも在席していたとされています。

 

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こちらが、コラールト宮の歴史に関する史跡パネル。

 

「1671年に建てられ、1715年と1725年にファサードを新しくした」と書かれています。モーツァルトが来る200年も前からここにあった建物なのですね。

 

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ウィーンにあるモーツァルト関連の建物で、現存しているものはかなり少ないので、貴重な「当時からある建物」ということになります。

 

通りかかることがありましたら、ぜひ史跡パネルを見て建物を見上げ、250年前の6歳のモーツァルトの演奏の様子を思い浮かべてみてくださいね。


Palais Collalto

Am Hof 14

 


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2016-03-11 16:28 | カテゴリ:モーツァルトの歴史

モーツァルトと磁気療法で有名なメスマー博士の関係について、ちょっとだけ書く予定が、調べて行ったらどんどんハマってしまい、気がついたら8記事目。。

 

というわけで、そろそろまとめに入ります。

 

●史実まとめ

 

まず、史実としてメスマーは、金持ちの未亡人と結婚した有名な医師として、10代のモーツァルトのパトロンだったことは記録に残っています。

 

12歳と16歳のモーツァルトの世話をして、オペラの作曲や自宅での演奏会を依頼しています。ヨーロッパ旅行に飛び回っていたモーツァルト一家にとって、ウィーンでの頼りになるクライアントといったところでしょうか。

 

また、モーツァルトは後に、オペラ「コシ・ファン・トゥッテ」の中で、メスマーの磁気療法に言及しています。

 

●ミュージカルの登場シーンまとめ

 

上記の記録に残っているメスマーとモーツァルトの交流の内、ミュージカルに登場するのは12歳の時のメスマー邸での演奏会のみです。ただし、この場面は初演版のみで、ウィーン新演出版ではモーツァルト6歳でのシェーンブルン宮殿での演奏会に差し替えられています。

 

また、ミュージカルのプロローグで登場する、コンスタンツェを連れてのモーツァルトの墓探しは、史実ではない可能性が高いです。また、2幕プロローグとフィナーレで登場する墓場のシーンは、新演出版ではカットされています。

 

さらに、「神よなぜ許される」の画面でコロレドに脳みそを送りつけてくるのもメスマーですが、こちらも歴史的には無理っぽいです。

 

というわけで、表にまとめてみました。

 

モーツァルトの年齢 ミュージカルのシーン(ウィーン初演・ハンブルク、日本) ミュージカルのシーン(ウィーン新演出) 出来事 場所 その場にいた人物 史実?
1809 死後18年 プロローグ プロローグ モーツァルトの頭蓋骨探し サンクト・マルクス墓地 コンスタンツェ・墓掘り 史実ではない?(メスマーウィーン追放後)
1762 6   1幕最初 演奏会・コートを下賜される シェーンブルン宮殿 鏡の間ORローザの間 マリア・テレジア・カール1世、レオポルト、ナンネール 史実(レオポルトの手紙)ただしコートは赤ではない。
1768 12 1幕最初   演奏会 ウィーンLandstrasseのメスマーの自宅の庭/室内 メスマー、レオポルト、サリエリほか 史実(レオポルトの手紙)
1772/8 16     演奏会 ウィーンLandstrasseのメスマーの自宅の庭 メスマー、レオポルト 史実(レオポルトの手紙)
1772/9 16     訪問 Rothmuehle城 メスマー、レオポルト 史実(レオポルトの手紙)
(1777)       メスマー、ウィーン追放。パリへ。     史実
  死後18年 2幕プロローグ   モーツァルトの頭蓋骨探し・ サンクト・マルクス墓地 コンスタンツェ 史実ではない?(メスマーウィーン追放後)
1781/10 25 「ここはウィーン」   モーツァルトのピアノコンサート。その後客が「ここはウィーン」を歌う。 カプツィーナ教会向かいの市営カジノMehlgrube メスマー・サリエリ、男爵夫人、シカネーダー他 史実ではない?(メスマーウィーン追放後)
1782/8 26   「ここはウィーン」 オペラ「後宮からの誘拐」初演。その後「ここはウィーン: ミヒャエル広場の旧ブルク劇場舞台&劇場前(背景は国立オペラ座) ヨーゼフII世 史実
(1784)       メスマー、パリとドイツで療法を否定される。     史実
1784-5 28 「神よなぜ許される」 「神よなぜ許される」 脳みその配達 ザルツブルク コロレド・アルコ 史実ではない?(メスマーウィーン追放後)
(1793)       メスマー、離婚した妻の遺産整理のため再びウィーンを訪問し、再度追放。      
1809 死後18年   フィナーレ モーツァルトの頭蓋骨発見 サンクト・マルクス墓地 コンスタンツェ 史実ではない?(メスマーウィーン追放後)

 

●ミュージカルモーツァルト!でのメスマーの役割

 

しかし、初演当時の生身のメスマーの登場シーンである、プロローグ、2幕始め、フィナーレの内、後の2つがカットされちゃったら、あのプロローグがかなり他の部分と関係なくなって、浮いてくるなー。

 

おまけに脳みそコレクションも史実でないとすれば、あれはかろうじてメスマーを忘れないでアピールだったのかなw.

 

これはやはり、メスマーが当初もっとはっきりした狂言回し役だったという説が色濃くなってきましたねー。メスマーの登場シーンは、初演に至るまででもかなりカットされて、それが新演出版になると、プロローグと脳みそコレクションだけが残されちゃったんだね。。とっても重要なはずの神童コンサートですら、もっと有名なシェーンブルンのコンサートに置き換えられてしまったんだし、、。

 

なんだか、インチキ医者とか色々と言われてる上に、登場シーンも差し替えたりカットされたして、メスマーが段々かわいそうになってきた。。それも、10代のモーツァルトがものすごくお世話になってたって、レオポルトの手紙読んでてすごく感じたし、恩人なわけだし。

 

●まとめ

 

けど、別にモーツァルト!のメスマーの登場シーンが史実か史実じゃないかは、ミュージカルの本筋と関係ないから、別に重箱の隅を突くつもりはないんです。単に調べてて楽しかっただけw

 

クンツェ氏もインタビューで「歴史的に正確であろうと思ったわけでは全くありません」「現代の観客のために、当時の人物を動かしているのです」って言ってるし、メスマーてほんといてもいなくてもいいキャラだしね。。

 

けど、メスマーに着目してみたら、意外な初演と新演出版の違いや、それによる変更の影響が見えてきて、とっても面白かった!田舎の城一個訪れるだけで、ここまで記事が書けてしまうんだから、モーツァルトを巡る史実、ほんと面白い!

 

モーツァルト、メスマー、コロレドと、同時代に生きた個性の強い人物たち。こんな濃い人たちが、このウィーンでウロウロしてたなんで、考えるだけでもワクワクしますね。ちょっと今度、Landstrasseのメスマー邸を見に行ってみようかなー。

 

 

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2016-03-09 16:23 | カテゴリ:モーツァルトの歴史

ここまで検証してきて、1809年にコンスタンツェが、メスマーとサンクト・マルクス墓地にいるのは難しいのでは?という流れになってきました。

 

それでは、メスマーとサンクトマルクス墓地は無関係だったんでしょうか?これには、興味深い事実が出てきました。

 

メスマーの有名な患者に、盲目の女性作曲家でピアニストの、マリア・テレジア・パラディスMaria Theresia Paradisという人がいます。

 

この人もモーツァルトの同時代人で、おまけにメスマーを取り巻く音楽家ですので、当然モーツァルトとも親交があります。モーツァルトの『ピアノ協奏曲第18番 変ロ長調』はパラディスのために書かれたと言われています。

 

彼女は3歳頃で視力を失い、18歳になった1766年から11年間、メスマーの治療を受けました。

 

その催眠療法で使われた「グラス・ハーモニカ」という謎の楽器は、当時人を死に至らしめると言われていたため、メスマーはこの治療のために、ウィーンを追放されることになります。(これが理由で、再度妻の遺産整理のためにウィーンに戻ってきても、またすぐ追放されてしまったんですね。。)

 

少し後の時代のものだけど、グラス・ハーモニカってこんなもの。

 

こうやって演奏するらしい。 

 

あと、磁石を使って催眠療法をしている時のメスマーが像になってました。

 

Mesmer. Plastik von Peter Lenk auf der Hafenmole von Meersburg

 

つまり、メスマーの最も有名な患者で、彼の没落の引き金ともなった人の遺体が眠る墓地が、サンクトマルクスだったということは史実です。もしかしてメスマーは、モーツァルトじゃなくてこの盲目の女性音楽家を探していたのでは?なんて勘ぐってしまいます。

 

(次回、モーツァルトとメスマーの関係をまとめます)

 

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2016-03-07 16:21 | カテゴリ:モーツァルトの歴史

ウィーンミュージカル、モーツァルト!で超脇役で登場するメスマー博士と、モーツァルトの交流について、史実を検証していくシリーズ第6弾です。

 

モーツァルト!に関する記事は、モーツァルト!カテゴリからどうぞ。

 

●ウィーン新演出版で削られた、第二の墓場のシーン

 

・2幕プロローグの墓場

 

ウィーン初演版(ハンブルク版、日本版も)では、1幕のプロローグだけではなく、2幕の始め(プロローグ)もこの墓場のシーンで始まります。

 

コンスタンツェに墓の位置を指定された墓掘りが墓を掘り始め(正しい位置かは別として)、メスマーはモーツァルトに性格ついてコンスタンツェに質問しますが、コンスタンツェは口を閉ざします。

 

ここで興味深いのは、モーツァルトとの関係について、メスマーは「もちろん何度か遠目に見たことはあるけれど」「彼の性格は特異で変わっていたように見受けられたが」とありますが、遠目に見たと言うより、あなた10代のモーツァルトのパトロンで、16歳のモーツァルトはあなたの所に入り浸ってたんじゃなかった?

 

このシーンはウィーン新演出版ではカットされていて、2幕はいきなり「ここはウィーン」からスタートしますね。

 

 

・旧版「ここはウィーン!」のメスマー

 

そして、次の「ここはウィーン」のシーンにもメスマーはいます。この場面、ハンブルク版のリブレットによると、ウィーン(カプツィーナ教会向かいの市営カジノMehlgrube)でのピアノコンサートのあと、メスマー、シカネーダー、男爵夫人を含む観客がウィーンについて色々話してるわけですが、この歌の一番スパイスの聞いている「ナイフを隠して手にキスをする」のソロパート、歌ってるのメスマーだ!

 

メスマー本人が一番、このウィーンの怖さを知っていた人だから、ものすごい説得力あるわ。。この名言を彼に言わせたクンツェ氏すごい!

 

けどね。。この場面にもメスマーは登場できないはずなんだよね。。だって、前述のとおり、メスマーは1777年にウィーンを追放されてるので、この場面の1781年にウィーンにいるのは無理なんだよね。。

 

・新演出版の「ここはウィーン」

 

そしてこのシーン、新演出版では、ミヒャエル広場の旧ブルク劇場の舞台と場所が変わっていて、オペラ「後宮からの誘拐」上演後となっています。皇帝ヨーゼフII世も出てきてますね。

 

ちなみにこの作品は、ヨーゼフII世の命で作られ、旧ブルク劇場で1783年に初演されたので、この事自体は史実です。(背景に使われているのは国立オペラ座の正面玄関ですけど、これはわかりすぎるくらいの転用ですので、間違いと言うのは野暮ですねw)

 

この「ここはウィーン」新演出版の場面にメスマーが目立つ形でいたかどうかはわかりません。

 

 

というわけで、「ここはウィーン」のシーンの場所も登場人物も、ガラッと変わってしまいましたね。年は1782年が1783年に変わっただけで、モーツァルトの年齢も25-26歳なので、大きな影響はないのかもしれません。

 

 

●ラストシーンで再び登場するメスマー

 

あらすじ(初演版、新演出版)によると、ヴォルフガングの死後、ナンネールが小箱を開ける前に、再びメスマーが登場すると書かれています。

 

Auf dem St. Marxer Friedhof hält Mesmer einen ausgegrabenen

Menschenschädel in die Höhe.

 

「サンクトマルクス墓地では、メスマーが掘り出された頭蓋骨を取り出し、高く掲げる」

 

えっと。。新演出版でこのシーン見た記憶ないんですけど。。2幕始めの墓地のシーンと同じく、完全にカットされていると思われます。そもそもモーツァルトの頭蓋骨特定できるわけないしね。。

 

・この場面の詳細

 

ハンブルク版のリブレットを見てみますと、

 

チェチェリア・ヴェーバーがヴォルフガングの死を確認し、レクイエムの報酬として得た金を発見して喜ぶ

→舞台の別の場所で、メスマーが頭蓋骨を興奮して手に取り、コンスタンツェに目もくれず、報酬の入った袋を渡す。金を数えるコンスタンツェ。

→ナンネールがモーツァルトの目を閉じてやり、小箱を開ける、

 

という流れになります。

 

新演出版では、墓場のシーンがカットされ、チェチェリア→ナンネールの順番で入ってきます。チェチェリアの金の小袋もなかった気が。

 

旧版は、チェチェリアの金→コンスタンツェの金→ナンネールの小箱、という流れがとてもきれいな印象です。

 

新板は、なぜ唐突にチェチェリア?で次がナンネールで、目を閉じてあげるのね。からの、小箱(Der Prinz ist fortが流れる)という流れでした。少し疑問が残ったのを覚えています。

 

 

 

(次は、インチキと言われたメスマーの療法に迫ります)

 

 

 

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