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2019-04-26 16:12 | カテゴリ:ウィーンの教会

パリのノートルダム大聖堂の火災には大きなショックを受けましたが、こ機会に、1945年にウィーンのシュテファン大聖堂を襲った火事とその後の話をまとめておきます。



オーストリアの象徴ともいえるシュテファン大聖堂は、第二次世界大戦終戦直前まで奇跡的に無傷を保っていました。戦争当初からターゲットになる確率が高いと言われていて、内部の美術品や宝物は、地下室などに避難されていました。


そんな中、第二次世界大戦が終わろうという1945年3月12日、アメリカ軍の空襲により、2つの砲弾が北東の角とカタコンベ入口が破壊され、同時に大聖堂周辺の水道が破壊されます。

4月1日、一部破壊された大聖堂内で、イースターミサが執り行われました。


その後も、ソビエト軍の攻撃により、シュテファン大聖堂周辺で手榴弾が飛び交う中、塔などが一部損傷します。


4月10日、シュテファン大聖堂はある男によって救われます。ソビエト軍がウィーンに入った際、大聖堂の塔の近くで白旗を掲げた人がいるという噂が立ちました。


このことに業を煮やしたSS(ナチス親衛隊)は、大聖堂の破壊を命じますが、Klinkichtという将校が命令の執行を拒み、シュテファン大聖堂は破壊を免れます。今でも大聖堂には、彼の功績を記した記念碑が残されています。


またこの時、シュテファン大聖堂の正面に05の数字が刻まれます。 この05の文字はまた別の機会に記事にしますが、オーストリアという国が併合され、分割統治されても抵抗を続けるという強い意志の表れです。


ソビエト軍が侵攻してきても、損傷は一部に留まっていた大聖堂ですが、翌日とうとう事件は起きます。


1945年4月11日、大聖堂から火が出ます。原因は大聖堂周辺の建物が荒らされて出た火が燃え移ったものとされていますが、SSやソビエト軍が砲撃したという説もあります。以前の爆撃で大聖堂周辺の水道が破壊されていた上、SSの命令でドナウ運河方面に消防士が出払っていたため、市民は為すすべもなく見守るしかありませんでした。




シュテファン大聖堂の屋根と天井のアーチは焼け落ち、プンメルンと呼ばれる巨大な鐘と、もう一つの鐘は落下して粉々になり、パイプオルガンは熱風でヒューヒューと音を立てながら壊れていきました。ウィーン人は、そんなシュテファン大聖堂の姿を見て、泣きました。




当時の枢機卿が、„Na, wir werden ihn halt wieder aufbauen müssen.“ 「さて、また建て直さないといけないね」と言った言葉通り、4月25日には既に、戦後の混乱の中、後片付けが始まりました。




シュテファン大聖堂は、焼け落ちてから3年半後に、再建工事がまだ進む中、再開します。主翼部分とプンメリン(鐘)は1952年に修復され、南塔(高い方の塔)の修復には1965年までかかりました。


当時の司祭が、国中回って寄付を募った結果、ニーダーエスターライヒ州が石の床、チロル州が窓、シュタイヤーマルク州が扉、といったふう、オーストリアの各州がそれぞれ重要な部分を担当し、再建に協力しました。


オーバーエスターライヒ州は砕け散った破片を集めて、プンメリンを鋳造し直しました。戦前のプンメリンは1711年に、トルコ包囲の砲弾を溶かして作られたものでしたが、戦後のプンメリンは、粉々になった鐘をまた溶かして再鋳造されました。

ウィーン市は天井を再建しましたが、シュテファン大聖堂の屋根の修復資金には、多くの個人の寄付金が集まり、国家予算や税金は不要だったそうです。Dachziegelaktion(屋根瓦キャンペーン)では、屋根瓦一枚5シリング(40セント、50円)から寄付ができ、市民はこぞって寄付しました。また、「大聖堂建設宝くじ」や「記念切手シリーズ」なども発売され、ほぼ2億円の寄付が集まりました。


屋根を支える構造体は、15世紀の木造のものでしたが、再建時は鉄筋コンクリートとなった。理由は複数あり、戦後の木材不足に加え、耐火、重量軽減の他、屋根瓦が完成するまでの臨時の屋根や、足場としての機能も持っていました。カラフルな屋根瓦は、できるだけオリジナルに近くなるよう再建されました。

こうして、塔以外の部分は火事から7年で復活したシュテファン大聖堂。現在の姿と焼け落ちた姿を見比べると、この復興と再建にかけられた国民の強い願いを感じとることができます。





どの部分が残り、どの部分が再建されたのかを知ると、大聖堂のそれぞれの箇所に刻まれた歴史を、思い起こすことができますね。

シュテファン大聖堂の歴史は、このブログでも追いかけているテーマの一つです。また知られざる姿を紹介していきますね。



2019-03-31 16:40 | カテゴリ:皇太子ルドルフの歴史

エリザベートとフランツヨーゼフの息子、皇太子ルドルフの妻、ベルギー皇女ステファニーの半生について調べてみたのをまとめてみました。

 

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ルドルフとステファニー(Wikipediaより)

 

ステファニー、ルドルフ死後の後半生がおもしろい。25歳で5歳の娘(エリザベート・マリー。この人の人生はもっとすごい)を抱えて未亡人になったステファニーは、シシィに似て旅に取り付かれた10年を送る。

 

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ステファニーと娘1885年(Wikipediaより)

 

ステファニーは、1900年に36歳になり、ハンガリー貴族ローニャイと身分違いの結婚をしてから、夫の居城で今のスロバキアで45年間幸せに過ごす。

 

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二番目の夫ローニャイ(Wikipediaより)

 

ルドルフとの不幸な結婚は8年間だったのに対し、ローニャイとの幸せな結婚は45年も続いたのね。こちらはイタリア、ミラマーレ城での結婚式とロマンチック♪

 

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イタリア、トリエステのミラマーレ城

 

第二次世界大戦でロシア軍に居城を荒らされるのをなす術もなく見守ったあと、寝たきりになりハンガリーのパンノンハルマ修道院にて永眠。夫も一年後に亡くなる。二人は亡くなった、ハプスブルク家縁のパンノンハルマ修道院に今もひっそり埋葬されている(こないだ行ったとき偶然見つけてビックリした)

 

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パンノンハルマ修道院

 

このパンノンハルマ修道院、ハンガリーの平原の高台にポツンと建ってるんだが、3年前に亡くなったオットー・フォン・ハプスブルクも行ってた寄宿学校が付属している。オットー自身の希望により、心臓はここに埋葬されている。レストランが素敵で美味しい♪

 

ルドルフとステファニーの唯一の娘、エリザベート・マリーの人生もものすごいので、ついでに紹介しておきます。

 

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エリザベート・マリー

 

5歳で父ルドルフ、15歳で祖母シシィを亡くし、17歳でヴィンディッシュ・グレーツ侯爵と身分違いの結婚をして、皇位継承権を放棄する。子供が四人(フランツ・ヨーゼフ、エルンスト・ヴェーリアント、ルドルフ、シュテファニー)産まれるが、結婚から20年後別居し、子供を手放すことになる。

 

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エリザベート・マリーとヴィンディッシュ・グレーツ侯爵

 

そのことに同情した社会民主党指導者ペツネックと同居を始め、入党までしたことで「赤い皇女」と呼ばれる。ペツネックは第二次世界大戦でオーストリアが併合され、ダッハウ収容所に送られるが、戦後帰還。正式に前夫と離婚し、再婚となる。彼女は、遺品は全て国に返すと遺言し79歳で亡くなる。

 

彼女は、私が長く追っている、とある遺品を受け継いだ可能性が高いので前に調べたことがあったんですが、実際「国に返す」と遺言していても、返されたかどうかが不明なんだよね。。でも、彼女がその遺品を身につけた写真は残ってるので、ここから先が謎だ。。

 

というわけで、ルドルフ皇太子死後の妻と娘の壮絶な人生を振り返ってみました。皇族も色々と大変ですね。。

 


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2018-11-11 16:16 | カテゴリ:モーツァルトの歴史

一つ前の記事で、モーツァルトの葬儀について解説しましたが、今回は「どこで葬式が行われたのか?」という疑問に答えていきたいと思います。


●葬式の用語と手続き


モーツァルトの葬式、と一言で言っても、いくつか手順がありますし、巨大なシュテファン教会のどの礼拝堂で行われたのかも諸説あります。


まず、葬式の儀式と用語について解説します。


葬式はドイツ語でBestattung, Todesfeier, Begräbnis(埋葬に近い)など、複数の表現があります。また、オーストリアではEinsegnungがBestattungの代わりに使われることもありますし、「聖別する」(聖水をかける儀式)を指すこともあります(プロテスタントではAussegungと呼ばれます)


また、モーツァルトの時代には遺体を安置し、一般弔問を受け付ける、Aufbahrenもありました。


実際の埋葬(灰や遺体を墓に入れること)はBeisetzungといいます。


このそれぞれの段階が、それぞれどこでどのように、だれが付き添って行われたかが諸説あるので、とてもややこしいのですが、以下のように整理できます。


・Aufbahren(一般弔問)は、自宅で12月5日~6日の昼にかけてと、シュテファン大聖堂で12月6日の午後に行ったとされています。


・Einsegnung(聖別の儀式。葬式ミサ)は、シュテファン大聖堂で12月6日に行われましたが、その会場となった礼拝堂に関しては諸説あります(後述)


・Beisetzung(実際の埋葬)は、聖マルクス墓地で、家族や友人の付き添いなく行われたとされています。ただし、当時はかなり遠方の墓地まで家族や友人が徒歩で付き添うのは現実的ではなく、教会の葬式の最後に、教会の地下室(カタコンベ)に「下す」ことで、Beisetzungの儀式の代わりとするという風習があったようです。


●葬式はどこで行われた?


それでは、モーツァルトの葬式がどこで行われたかを検証していきます。


これには二説ありますが、名前の類似性と複雑さが絡み合って生まれた謎なようですので、解きほぐしていきます。


まず、最もよく知られているモーツァルトの葬式があったとされる礼拝堂は、こちらです。


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これは、Kruzifixkapelle(Kruzifixとは、キリストが十字架に掛けられたことを指す)で、隣にある金の十字架が輝く像は、トルコ包囲からの解放を記念して1738年に作られた、Kapistrankanzelです。


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このKruzifixkapelleの中をのぞくと、十字架に掛けられたキリスト像があり、その足元にモーツァルトの記念パネルがあります。


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モーツァルトのパネル


”An dieser Stätte wurde des unsterblichen W. A. MOZART Leichnam am 6. Dezember 1791 eingesegnet. Wiener Schubertbund 1931“


「この場所で、不死のW.A.モーツァルトの遺体が、1791年12月6日に聖別された」(「不死の」とは、キリスト教では、体は死んでも魂は死ぬことはないことから)


自然に考えると、この場所にモーツァルトの棺が運ばれ、しばらく屋外でAufbahren(一般弔問)を受け付けた後、家族や友人が見守る中「聖別の儀式」が行われて聖水がかけられ、最後に下向きの扉が開けられて、教会地下のカタコンベに下すことで、墓地に行かなくともBeisetzungの儀式を形式的に終わらせた、という流れだと推測されます。


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カタコンベへの入り口


カタコンベはTodeskammer(死者の部屋)としても使われたため、遺体はここで墓地行きの馬車を待ち、12月6日の18時以前、もしくは12月7日の朝に、聖マルクス墓地に運ばれたとされています。


●もう一つの礼拝堂


ややこしいことに、シュテファン大聖堂にはもう一つ似た名前の礼拝堂があり、こちらで葬式が執り行われたという説もあります。


その礼拝堂はKreuzkapelle(十字架礼拝堂)。シュテファン大聖堂を入って左側の小部屋で、オイゲン公が埋葬されていることから、Prinz Eugen Kapelleとも呼ばれています。


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Kreuzkapelle入り口


先ほど登場した、シュテファン大聖堂左側外にあるのが、Kruzifixkapelle(磔刑礼拝堂)に対し、こちらはKreuzkapelle(十字架礼拝堂)。ドイツ語話者やカトリック信者にとっては、取り違えても不思議ではありません。また、葬式を外で執り行うという感覚もピンときませんね。


しかし、1791年の時点で、Einsegnung(聖別の儀式)を教会内で行う習慣はなく、許可もされていませんでしたので、個人的には、このKreuzkapelleでの葬式は、Kruzifixkapelleとの取り違いではないかと考えています。


(実際、シュテファン大聖堂が発行している公式ガイドブックでは、KruzifixkapelleのところにもKreuzkapelleと書かれていますし、シュテファン大聖堂の公式サイトでは、Kreuzkapelleは、別名のPrinz Eugen Kapelleと記されています。また、さまざまなサイトで、両者の取り違いが見受けられます。シュテファン大聖堂入って左のKruzifixkapelleと書かれていたり、KapistrankanzelのそばのKreuzkapelleと書かれていたり。。なので、おそらく歴史的にこの二つは名前が似ていることから、取り違いされやすいのではないかと思います)


また、屋内のKreuzkapelleで葬式をした場合、Einsegung「聖別の儀式」は教会の入り口で先に済まさなければならず、カタコンベに下すBeisetzungも、カタコンベの入り口とつながっているKruzifixkapelleに出なくてはなりません。


KruzifixkapelleとKreuzkapelleを行き来して、両方を使用した可能性も無きにしも非ずですが、少なくとも、重要な二つの儀式は、Kruzifixkapelleで行ったと考えるのが自然でしょう。


●聖マルクス墓地への道行き


葬式自体は12月6日であったと、教会の記録に残っていますが、1790年の「衛生法」により、死後48時間経ってから埋葬を認められたので、埋葬自体は12月7日の可能性が高いでしょう。


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聖マルクス墓地のモーツァルト記念碑「嘆きの天使」


気象記録によると、12月6日は穏やかな天気、12月7日は嵐だったとされています。すでに葬式の最後の「カタコンベに下す」Beisetzungの儀式で、遺族の気持ち的には埋葬が済んでいるわけですので、わざわざ翌日の朝嵐の中、墓地行の馬車に付き添うことが必要と考えた人は少なかったかもしれません。


そもそも、聖マルクス墓地は徒歩で付き添うには遠すぎるので、シュテファン大聖堂からSchulerstrasseを通り、Stubentorの門付き添って、最後のお別れをした人たちが、何人かいただけだったはずです。


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モーツァルトが住んだSchulerstrasseの前を葬列は進んだ。


この、大聖堂からStubentorの門まで付き添った人にも諸説あり、コンスタンツェのほかに、ファン・スヴィーテン、サリエリ、ジュスマイヤー、Roser, Orslerが付き添ったとしているのは、信憑性の低いJosef Deinerの手記ですので、実際何人が付き添ったのかはわかりません。


●まとめ


というわけで、モーツァルトの葬式について調べてみました。


シュテファン大聖堂のことについてかなり詳しく調べなければわからなかったのと、モーツァルトの死や墓の謎について触れている記事は多いのに、実際の葬式の場所や、参列者について書かれた文献が少なかったり、ぼかしてあったりで、調べるのにかなり苦労しました。新説も時々出ているようですので、注目していきたいと思います。


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2018-11-08 16:17 | カテゴリ:モーツァルトの歴史

モーツァルトの史実の調査をまとめるという、底なし沼にはまってもう久しいですが、ちょうどモーツァルトの葬儀について質問を受けたので、備忘録的にまとめておきます。


●前提


諸説ある、古い研究と新しい研究は内容が異なる、謎は残っている等、様々な点がある中、どの説が史実に近そうかも検証していきたいと思います。


今回の記事で扱うのは、モーツァルトの死から、シュテファン大聖堂を経て、棺が聖マルクス墓地に到着するまでです。モーツァルトの死因や、お墓の場所など、定番の謎については、今回は触れていません。


モーツァルトの葬儀の日の天気については、さまざまな説があり、検証はされていますが結論は出ていないので、軽く触れる程度にしておきます。


また、参列者等はソースによって異なりますので、諸説あるものを載せておきます。


●モーツァルトの死(自宅)


モーツァルトは、Rauhensteingasse 8にて、1791年12月5日の0時55分に亡くなりました。


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モーツァルト最期の家


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史跡パネル


同日朝から午前中にかけて、Dr. Eduard Guldener von Lobes医師による検死が行われましたが、特に気になる点はなかったとされています。


Joseph Graf Deym von Stritetzがデスマスクを取りますが、コンスタンツェが壊したと言われています(今残っているモーツァルトのデスマスクの信憑性が問われています)


その後自宅で一般弔問(Aufbahrung)があったとされています。その時はカプツィーナ修道僧のようなマント(一説によればフリーメイソンの黒いローブ)を着ていたとされています。


●自宅→シュテファン大聖堂の葬列と参列者


翌12月6日15時ごろ、シュテファン大聖堂へ移動します。


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シュテファン大聖堂


葬列(Trauerzug)は、十字架を持った人が先導し、4人がトウヒの棺を運び、コーラスの少年がいたそうですが、二頭立ての馬車だったという説もあります。教会では鐘が鳴らされたので、ウィーン市民は誰が亡くなったのかわかっていたのでしょう。


参列者については諸説ありますが、いた可能性があるのは、コンスタンツェ(早い段階で体調を崩し、子供たちとその場を離れたという話もあり)、コンスタンツェの姉妹とその夫たち(Josef Lange, Franz Hofer)、ファン・スヴィーテン男爵、モーツァルトの弟子のFranz Jakob Freystätlerとジュスマイヤー, シカネーダー劇団のファゴットとコントラバス奏者のOtto Hatwig, モーツァルトの友人のJohann Georg Albrechtsberger, 音楽家Alselm Hüttenbrenner、サリエリ、シカネーダーの友人で魔笛でタミーノを演じたBenedikt Schack、Kapellmeister Roser, ヴィオリンチェロ奏者Orsler、モーツァルトの行きつけのレストランのウェイターJosef Deinerがいたとされています。(参列者の信憑性については後述しますので、ここに書かれた人が全員いた可能性は低いかもしれません)


シカネーダーは参列していなかったとされています(Nissenの手記による)


Joseph Lange, Franz Hofer, Benedikt Schackは参列のソースは、1857年のMonatsschrift für Theater und Musikです。LangeとHoferはモーツァルトの親戚であり、友人であり、仕事仲間でもあったので、最も近しい男性といえるでしょう。


ファン・スヴィーテン、サリエリ、ジュスマイヤー、Kapellmeister Roser, ヴィオリンチェロ奏者Orsler、Josef Deinerは、教会から墓地行の馬車の付き添いのリストに含まれています。ソースは1856年1月28日、モーツァルトの誕生日100周年を記念したJosef DeinerのWiener Morgenpostに載った手記に基づいています。この手記自体信憑性を疑われていることもあり(葬式の日に大嵐という描写が。。)、そもそもその場にJosef Deinerがいたかどうかも定かではありません。


ほかの人物の参列の真偽については、ソースも不明ですが、Josef LangeとFranz Hoferはコンスタンツェの姉妹の夫ですので、モーツァルトの親戚の男性に含まれ、最も参列していた可能性が高いでしょう。コンスタンツェは体調を崩し、子供たちと共にその場にいなかった可能性もあります。コンスタンツェの姉妹(Aloysia Lange, Josepha Hofer, Sophie Haibel)は、夫たちが参列しているため、参列は控えた可能性があります(特に記録には登場しません)。


また、親族以外では、葬式代を出したパトロン、ファン・スヴィーテン男爵は参列していた可能性が高く、逆に、Albrechtsberger, Freystätler, Otto Hatwig, Anselm Hüttenbrennerに関しては、ソースがはっきりしていません。


また、自宅→教会の葬列と、教会での葬式、教会→Stubentor(墓地へ行く馬車の見送り)で、参列者が異なった可能性もあります。


ちなみに、モーツァルトの葬列の日程と天気に関して謎が多いですが、自宅から教会に移動した、12月6日の天気は穏やかだったとされています(Zinzendorfの手記および天文台の記録による)


(礼拝堂編に続きます)


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2018-07-27 16:12 | カテゴリ:モーツァルトの歴史

モーツァルトのトレードマークとも言える赤いコートの史実について検証していくシリーズ第4段です。

 

目次:

モーツァルトの赤いコートの謎に迫る①赤いコートは実在した?

モーツァルトの赤いコートの謎に迫る②大人サイズの赤いコート

モーツァルトの赤いコートの謎に迫る③男爵夫人におねだりした赤いコート

モーツァルトの赤いコートの謎に迫る④ミュージカル「モーツァルト!」の赤いコートの史実に迫る

 

●ミュージカルで登場する赤いコート

 

それでは、ミュージカル「モーツァルト!」で それぞれの赤いコートがストーリー上、どの場面で登場して、どのようないわれがあるのか、検証していきましょう。

 

ドイツ語版のモーツァルト!は、大きく分けてウィーン初演版、ハンブルク版、ウィーン再演版の三種類があり、日本版はウィーン初演版を元にして、所々他のバージョンの改変を追加しています。

 

★ウィーン初演版(ほぼ日本版と同じ)

 

ではまず、ウィーン初演版を見て行きましょう。

 

「赤いコート」の場面はザルツブルク。時期的にははっきりはしませんが、パリ旅行の前ですので、おそらく1775-77年前半の間ごろ、ヴォルフガング19-21歳ごろだと思われます。この場面で、赤いコートに言及しているのは、以下の歌詞の部分です。

 

[Wolfgang]
Als wir als Klimperkinder
Durch ganz Europa tour'n fuhr'n
Trug ich wenn ich auftrat
Immer den nämlichen Schock-Rock
Ganz à la mode: rot!
[Nannerl]
O ja, ich erinn're mich
[Wolfgang]
Der war ein Präsent...
[Nannerl]
Ich weiss...von der Kaiserin
[Wolfgang]
Doch dann hat er mir nicht mehr gepasst - dumm!
Seither trag ich grau und hab's immer gehasst, drum
Trag ich ab jetzt nur noch diesen hier!
[Nannerl]
Genau derselbe Rock nur grösser!

[Wolfgang]
Sag schon, Kanaille!
Wie steht er mir?
[Nannerl]
Samt und Seide!
Goldne Fäden!
So ein Rock ist nicht für jeden
Die Welt wird sich die Augen reiben
Du bist ein Prinz und wirst es bleiben

 

要約すると、「子供時代にヨーロッパを駆け巡っていた時、いつも真っ赤なコートを着ていた。それは皇后様(=マリア・テレジア)からの贈り物だった。サイズが合わなくなったので、全く同じだがサイズの大きいものを着ることにした。絹でできていて金糸の縁取りだった」となります。

 

また、その後、レオポルトが入ってきて、どこから手に入れた?と聞かれ「博打で勝った金で、自分で買った」と答え、父親に怒られる、という流れです。

 

ここで史実として正しいのは、ザルツブルク時代に錦糸に縁どられた赤いコートを持っていた(家族肖像画に描かれたものが実際存在したとすれば)、ということです。

 

また、史実と異なっているのは、「皇后さまから頂いたコート」は実際は赤ではなく藤色であったということです。モーツァルトが当時から自由になるお金があって、博打ができたかも、疑問の余地があります。演奏旅行費用などで、家族には借金があったとされているからです。

 

この場面は、史実は本当だが、色はフィクションということになりますね。

 

★ハンブルク版

 

ハンブルク版では、「赤いコート」のシーンが完全に削られ、子供時代から大人になってからも、赤いコートについて言及されることはありません。

 

★ウィーン再演版

 

ウィーン初演版とハンブルク版では、神童時代のコンサートは12歳のモーツァルトがパトロンのメスマー博士の前で演奏するという場面でしたが、ウィーン再演版はガラッと変わり、6歳のモーツァルトがシェーンブルン宮殿でマリア・テレジアの前で御前演奏をする設定になっています。

 

それに伴い、マリア・テレジア本人がモーツァルトに「赤いコート」を下賜する場面が登場します。Der Prinzenrock meines Sohnes Maximiliian. Er passt ihm nicht mehr, und jetzt sollst du ihn haben.(私の息子のマキシミリアンのコートよ。もう合わなくなってしまったので、あなたにあげましょう)というセリフと共に、アマデが受け取り、その場で袖を通します。

 

この場面で史実と合致しているのは、6歳の時にシェーンブルン宮殿でマリア・テレジアの前で演奏したこと、そして、マキシミリアンのお下がりのコートをもらったことです。ただ、今まで見てきたように、史実ではコートの色は赤ではなく藤色でした。

 

12歳メスマー邸のコンサートも、6歳マリア・テレジア御前コンサートも、どちらも史実通りです。再演で改変されたのはおそらく、ウィーンの観光地や有名なエピソードを取り入れるためだったのではないかと思います。

 

参考記事:舞台はウィーン! モーツァルトとメスマー博士③神童モーツァルトはいつどこで誰のために演奏した?

 

・まとめ

 

というわけで、ウィーン初演場、再演版、どちらも「マリア・テレジアからもらったのは赤いコート」という前提で話が続きますが、実は史実とは違ったということがわかりますね。

 

しかし、あまり知られていない「マキシミリアンのお下がり」という事実が入っていることからも、クンツェ氏は「実際は藤色であった」事を知っていて、敢えて話を分かりやすくするために、赤いコートと改変したのではないかと思います。

 

また、有名なBarbara Kraftのモーツァルトの肖像画のおかげで、モーツァルトといえば赤いコートというイメージが定着していますので、ここで史実に忠実に藤色にしてしまうのも、逆に野暮かもしれません。「赤いコート」のシンボル性や知名度を優先した、クンツェ氏の判断だったと推測されます。

 

こんな風に、「赤いコート」の史実とフィクションを検証してきましたが、史実がわかればわかるほど、改変部分の妙が見えて来たり、クンツェ氏の意図が見え隠れして、作品の理解が進む気がします。

 

また、色々とモーツァルトの史実を検証していきますので、お楽しみに!

 


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2018-07-24 16:12 | カテゴリ:モーツァルトの歴史

モーツァルトのトレードマークとも言える赤いコートの史実について検証していくシリーズ第二段です。

 

目次(記事が公開されたらリンクがつながります):

モーツァルトの赤いコートの謎に迫る①赤いコートは実在した?

モーツァルトの赤いコートの謎に迫る②大人サイズの赤いコート

モーツァルトの赤いコートの謎に迫る③男爵夫人におねだりした赤いコート

モーツァルトの赤いコートの謎に迫る④ミュージカル「モーツァルト!」の赤いコートの史実に迫る

 

●ヴァルトシュテッテン男爵夫人からもらった赤いコート

 

上の家族の絵の1,2年後の1782年9月、ウィーンにやってきたモーツァルトは、街で見かけた赤いコートに心を奪われ、パトロンだったヴァルトシュテッテン男爵夫人にこんな手紙を書きます。

 

wegen dem schönen rothen frok welcher mich ganz grausam im herzen kitzelt, bittete ich halt recht sehr mir recht sagen zu lassen wo man ihn bekomt, und wie theuer, den daß hab ich ganz vergessen, weil ich nur die schönheit davon in betrachtung gezogen, und nicht den Preis. – den so einen frok muß ich haben, damit es der Mühe werthe ist die knöpfe darauf zu setzen, mit welchen ich schon lange in meinen gedanken schwanger gehe; – ich habe sie einmal, als ich mir zu einem kleide knöpfe ausnahm, auf dem kohlmark in der Brandauischen knöpffabrique vis a vis dem Milano gesehen. – diese sind Perlmutter, auf der seite etwelche weisse Steine herum, und in der Mitte ein schöner gelber Stein. – Ich möchte alles haben was gut, ächt und schön ist!

http://dme.mozarteum.at/DME/briefe/letter.php?mid=1263&cat=3

 

「あの赤いコートは、私の心を不思議にくすぐります。どこで買えていくらくらいするのはは忘れましたが、それは、値段ではなく、その美しさばかりに気を取られてしまったからです。

 

あのようなコートはぜひ手に入れなければなりません。長い事思いを温めていたボタンを付ける価値があるからです。(中略)このボタンは、真珠貝で、周りは白い石で飾られ、真ん中には美しい黄色い石がはめてあるんです。

 

私は、良いもので、本物で、美しいものはなんでも欲しいんです!」

 

そして、そのコートを実際に男爵夫人に買ってもらう約束を取り付けたモーツァルトは、すぐに喜びの手紙を出します

 

Allerliebste, Allerbeste, Allerschönste,
Vergoldete, Versilberte und Verzuckerte,
Wertheste und schätzbareste
Gnädige frau
Baronin!

und das war, mich zu bedanken daß sich Euer gnaden gleich so viel Mühe wegen dem schönen frok gegeben – und für die gnade mir solch einen zu versprechen!

 

 

「最も素敵で、最高で、最も美しい、金をかぶせて、銀をかぶせて、砂糖もかぶせた、最も高貴で、最も尊敬すべき、慈悲深き男爵夫人どの!

(中略)

あの美しいコートに、あれほど骨を折っていただき、私に一着約束して下さった事に、お礼を申し上げることでした。」

(この手紙は全体的にものすごくテンションが高く、モーツァルトの飛び上がるような喜びにあふれています。)

 

 

・・とこんな風に、モーツァルトはウィーンで、ヴァルトシュテッテン男爵夫人に赤いコートを買ってもらいました。時系列的に考えると、家族の肖像画のものと、このウィーンで買ってもらったコートは別物ということになりますね。

 

これを、「第四の赤いコート」とします。

 

●「第四の赤いコート」と発見された肖像画

 

このヴァルトシュテッテン男爵夫人にもらった赤いコートがどのようなものであったのかは、近年までわかっていませんでした。

 

なにしろ、モーツァルトの肖像画だと確実に言えるものは少なく、その中でも大人の姿でカラーのものは、上の家族肖像画と、ランゲの未完の肖像画くらいしかなかったのですから、探しようがありませんでした。

 

ところが、2008年3月になって、モーツァルトの肖像画が新しく発見され、大ニュースになりました。

 

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File:Hagenauer Mozart mid-1780s press quality.jpg - Wikimedia Commons

 

以下の記事によると、この絵は、「第一のコート」を着た12歳のモーツァルトの絵を所有していたのと同じ、父レオポルトの友人で、ザルツブルクの家の家主のハーゲナウアーのコレクションの中の一枚で、モーツァルトのホンモノの肖像画であると確認されています。

 

この絵が描かれた時期は、1780年代中頃とされ、上記のヴァルトシュテッテン男爵夫人への手紙にあるボタンに似た物が付いていることから、これがまさに「第四のコート」であるとも、以下の記事に書いてあります。

 

New Wolfgang Amadeus Mozart portrait found - Telegraph

 

●モーツァルト死亡時の財産目録

 

また、1791年にモーツァルトが無くなった時の死亡目録にも、赤いコートが記載されています。おそらく、この「第四のコート」を死亡時まで手放さずに、大事に持っていたのでしょう。

 

英訳版のリストですが、スプーンや靴、衣装に混じって6行目に、red cloth dittoとあります。dittoとは同上という意味ですので、「赤い布製のコートとベスト」ということになりますね。(他に白と青のコートとベストのセットなど、沢山の衣装も持っていたようです)

 

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Mozart: A Documentary Biography - Otto Erich Deutsch p585

 

これで、モーツァルトが大人になってから来ていた赤いコートのうちの一つは実在して、絵画も残っていることがわかりました。

 

●ウィーンのモーツァルトハウスに展示されている赤いコート

 

実は、ウィーンのモーツァルトハウスに、赤いコートが展示されています。ここは実際に行ってみると、特に説明もなく、オーディオガイドでは上記の男爵夫人への手紙の内容を聞くことができますが、実はこれはレプリカで、上記の第一から第四のどのコートにも似ていません。

 

しかし一応、公式の博物館に展示しており、通常撮影不可ですが、この日は特別に撮影可だったので、資料として貼っておきます。

 

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このコートは、実在していたわけではない可能性が高いですが、ミュージカル「モーツァルト!」日本版のポスターのヴォルフガングや、ウィーンの舞台版のアマデが着ている赤いコートは、おそらくこのデザインを元にしていると思われます。

 

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ウィーン版のアマデの着ている赤いコート。宣伝用の動画撮影のYoutube動画より切り出し。

 

(次は、ミュージカル「モーツァルト!」に登場する赤いコートとその出所を検証します)

 


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2018-07-21 06:12 | カテゴリ:モーツァルトの歴史

モーツァルトのトレードマークとも言える赤いコートの史実について検証していくシリーズ第二段です。

 

目次(記事が公開されたらリンクがつながります):

モーツァルトの赤いコートの謎に迫る①赤いコートは実在した?

モーツァルトの赤いコートの謎に迫る②大人サイズの赤いコート

モーツァルトの赤いコートの謎に迫る③男爵夫人におねだりした赤いコート

モーツァルトの赤いコートの謎に迫る④ミュージカル「モーツァルト!」の赤いコートの史実に迫る

 

●14歳ごろのモーツァルト

 

こちらの、14歳で描かれた以下の絵では、モーツァルトは赤いコートを着ていますが、服のデザインは上のものとずいぶん異なります。上の12歳のモーツァルトの上着より、こちらの方が数段豪華です。この絵は1770年にイタリアのヴェローナで描かれたものです。

 

MozartVeronadallaRosa_thumb[1]

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:MozartVeronadallaRosa.jpg

Saverio Dalla Rosa January 1770(14歳)

 

これは、上の12歳の時の絵よりずっと有名ですし、本人の絵であることが確定していますが、このコートの贈り主はわかっていません。

 

既にこのころには、赤いコートがトレードマークになっていたのかもしれませんね。これを、当記事では「第二の赤いコート」とします。

 

●大人になったモーツァルトの赤いコート

 

こちらはモーツァルトの最も有名な絵で、赤いコートを着ています!モーツァルト=赤いコートの印象を植え付けた張本人の絵と言えそうです。

 

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https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Wolfgang-amadeus-mozart_1.jpg

1819: Barbara Kraft commissioned by Joseph Sonnleithner


しかしこの絵は、モーツァルトの死後28年もたった後、モーツァルトの収集家Joseph SonnleithnerによってBarbara Kraftが依頼されて描いたもので、生前の絵ではありません。

 

この絵を描くときに、Kraftはモーツァルトの姉ナンネールから資料としていくつかの絵のコピーを受け取っていますが、その中でナンネールが一番高く評価していたのが、この絵です。

 

800px-Croce_MozartFamilyPortrait_thumb

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Croce_MozartFamilyPortrait.jpg

circa 1780 Johann Nepomuk della Croce


この絵は、モーツァルトが22歳だった1780年頃に、故郷のザルツブルクで描かれたものです。母親はすでに亡くなっているので、肖像画として登場しています。

 

こちらの絵のモーツァルトを拡大した物がこちら。

 

800px-Croce_MozartFamilyPortrait - crop_thumb[2]

 

Kraftのものと表情や背筋の伸ばし方は少し異なりますが、赤いコートや髪型など、細部を参考にしたことは見て取れますね。

 

こちらのコートが最も有名なもので、「第三の赤いコート」とします。但し、モーツァルトが実際にこの赤いコートを所有していたのか、画家の想像かはわかっていません。

 

(次は、ヴァルトシュテッテン男爵夫人におねだりして買ったもらった赤いコートが登場します)

 


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