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2017-10-01 16:36 | カテゴリ:歴史

よく行く家の壁に、こんなにかつてのウィーンの姿の絵が飾ってあります。

 

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この絵を見て、色んな疑問が浮かんできました。この景色、今のウィーンで見たことないよ!これはいったいどこ?今日はこの絵の謎に迫ってみます。

 

●謎解きの始まり

 

絵の下には、「ウィーン、ミヒャエル広場のブルク劇場」のキャプションがあります。

 

ホーフブルクの一部に旧ブルク劇場があって、モーツァルトのオペラなども上演されたことはよく話には聞くのですが、ホーフブルクのどこにあったのか、気になってきました。(※後宮からの誘拐、フィガロの結婚、コシ・ファン・トゥッテの三作品はこの旧ブルク劇場で初演されています)

 

元々王宮の一部だったブルク劇場は、皇帝フランツヨーゼフの時代の1888年に今の場所に移転しました。この絵は移転前の旧ブルク劇場です。

 

ということは、エリザベートが亡くなる10年前まで、この場所は今のホーフブルクの様に弧を描いていたわけではなく、上の絵のように旧ブルク劇場が建っていたことになり、想像する風景がまた変わってきますね。

 

ちなみに、移転後のブルク劇場は、ウィーン市庁舎の真っ正面、リンク大通り沿いに立っていて、ドイツ語の由緒あるストレートプレイの劇場です。

 

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移転後の現在のブルク劇場

 

●現地調査!

 

それでは、この絵の現場が、今はどうなっているのか見てみましょう。

こちらの写真が、現在の王宮(ホーフブルク)です。

 

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写真と見比べてみるとずいぶん違いますね。けど、クーポラが三つあるので、どこが違うのかちょっとわかりにくいかもしれません。もう少し近寄ってみてみると。。

 

向かって左翼の真ん中(下段左から三つ目と四つ目の窓の間)に、目立たない史跡パネルがあります。

 

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この史跡パネルのアップがこちら。

 

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「ここには1767年ヨーゼフ2世の時代に建てられた旧ブルク劇場が、1888年まであった」との説明書きがあります。ここで古い絵を見返してみると、2番目の窓で建物は途切れ、劇場が手前に張り出しているのがわかりますね。

 

●古い絵を再現してみる

 

せっかく現地調査に来たので、この古い絵と同じ景色を写真で再現しようと頑張ってみました。コールマルクトのデーメルの前辺りから撮るとこんな感じになります。これ以上は相当の広角じゃないと無理w 。

 

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左手前にミヒャエル教会の塔、ホーフブルクの左翼のクーポラ。下段左二つ目の窓から右は、劇場移転後付け足したのが、こうして並べてみるとわかりやすいです。

 

元々このホーフブルクのミヒャエル門は、左のクーポラと下段の窓二つ分、つまりこの写真の左2割くらいしかなかったんですね。

 

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黄色い線の左側だけが元々のホーフブルクだった。

 

●旧ブルク劇場の姿

 

当時のホーフブルクと旧ブルク劇場のわかりやすい絵や写真がもう少し出てきたので、挙げておきます。

 

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Altes Burgtheater Gedenktafel

 

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Altes Burgtheater – Wien Geschichte Wiki

 

この、右の四角い建物が旧ブルク劇場で、数々のモーツァルトのオペラが初演されたかと思うと、なんだかもうなくなった劇場ではありますが、愛着がわいてくる気がします。

 

それにしても、今の堂々たる姿を誇るホーフブルクのミヒャエラ門ですが、シシィの時代はこんな感じで切れていたんですね。。この左側の建物は、スペイン乗馬学校として使われていたということで、用途は今と同じでした。

 

ちなみに、この旧ブルク劇場が取り壊される前に、内装を記録に残すために内部の絵を注文されて描いたのが、当時まだ若かったクリムト。

 

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この絵はもっと鮮やかだった記憶があるのですが、こんなセピア色のしか見つかりませんでした。。確かウィーン博物館に巨大な実物があったはず。描かれている人物は当時のセレブで、似顔絵を描くためにクリムトは大量のセレブのスケッチをしたというエピソードがあります。

 

また、クリムトは、新しいほうのブルク劇場の天井画も描いていますね。若かりし頃だったので、金粉をたくさん使ったような後年のデザインではありませんが、一度ガイドツアーなどで中を覗いてみるのも面白いですよ。

 

●現在の姿

 

こんな昔のホーフブルクの姿を見てから、もう一度今の姿を見てみましょう。

 

真ん中のクーポラを含む全体の8割は、旧ブルク劇場移転後、フランツヨーゼフの時代(シシィの晩年10年間)に増築された事がわかります。一から作るより、中途半端な建物に増築する方がずっと難しそうな気がしますが。。この残りの部分が完成して、いま私たちが見ることのできるミヒャエル広場の姿になったわけですね。

 

 

というわけで、今回はミヒャエル広場と、ここに昔あった旧ブルク劇場の歴史に迫ってみました。

 

こういう、古い絵や地図を元にした現地調査が大好きなので、またネタを見つけてはやってみようと思います。

 

 



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2017-02-01 16:22 | カテゴリ:歴史

前回の記事で、オイゲン公からモーツァルトまでの5人のハプスブルク家当主を並べてご紹介しましたが、この人たち、一体役職は何だったんでしょう?ハプスブルク皇帝?オーストリア皇帝?いえいえ違います。

 

●オーストリアの君主は皇帝?大公?

 

横軸で見ると、当時は「オーストリア皇帝」と言うものはなかったんです。オーストリアという国の君主は「オーストリア大公Erzherzog」で、ハプスブルク家の当主が務めていた。大公が治めるので、帝国ではなく「公国」。

 

このハプスブルク家の当主は「ハンガリー王」「ボヘミア王」など他の国の君主も兼任していました。そんな兼任する役職の中の一つに「神聖ローマ帝国皇帝」があり、「皇帝」を名乗れるのはこの役職のおかげでした。

 

じゃなんで、ローマと地理的に関係なさげなハプスブルク家が「神聖ローマ帝国」の皇帝になれるの?ってところから説明します。

 

●神聖ローマ帝国=ドイツ?

 

神聖ローマ帝国の始まりは、962年に苦労人wオットー1世がローマ教皇から「あなたローマ帝国の皇帝ね」と任命してもらったことから始まります。このローマ帝国の皇帝は、ローマ教皇より下の立場だったのが、段々強くなっていき、おまけに「神聖」の名を付けたりして独自の格を持ち始めます。

 

当時ドイツは、今のような統一された国ではなく、日本史の藩のような感じで、それぞれ王が統治していました。おまけに周りと戦争しまくるので、領土もあやふや。ローマに住む教皇は、その王たちを取りまとめる、戦国時代の天皇のようなものでしょうか。そんな王から選ばれ、教皇に任命される「神聖ローマ帝国の皇帝」は、将軍に近いかもしれません。

 

ドイツの地域ごとの王(選帝侯)が話し合って決めた人を教皇に任命してもらっていため、神聖ローマ帝国皇帝の地位は元来非世襲。色んな王が持ち回りで皇帝の冠も被るので、「神聖ローマ帝国」という土地の君主と言う意味合いは少なく、ドイツ語圏の「王様の王様」という名誉職と思えばわかりやすいかも。

 

選帝侯たちは、なるべく無能な人物が皇帝に選ばれるよう画策した結果、皇帝が見つからなかったり、逆に無能で高齢だと思って選んだ人が有能すぎて失敗したこともあった。例えば、当時弱小だったハプスブルク家のルドルフ1世を無能と判断して選んだら、名門に成長し領土を広げまくったり。

 

ハプスブルク家はこのルドルフ1世の後で二代世襲で「皇帝」を出すが、その後200年程選んでもらえなかった。それが、15世紀中頃からは独壇場。オーストリア大公であるハプスブルク家が「皇帝」の冠を連続して被り、「ハプスブルク家当主=オーストリア大公=神聖ローマ皇帝」の時代が来る。

 

●王位と皇位兼任の問題①一人二役(以上!)

 

しかし、一人の人物が複数の王位や皇位を兼任していると、やっぱり無理があるようで、色々とややこしいことがある。まあ、それも政治の世界だから無理やり何とかしちゃうわけなんだけど。

 

まずは、同一人物が役職によって呼称が変わるということ。例えば、ハプスブルク家のカール2世は、オーストリア大公としては二人目のカールなので2世だが、神聖ローマ皇帝としては6人目のカールなのでカール6世となる。つまり、同じ人物がオーストリア大公カール2世=神聖ローマ皇帝カール6世

 

●王位と皇位兼任の問題②皇帝になれないマリア・テレジア

 

更に、オーストリアは女性の大公を認めているが、神聖ローマ皇帝は認めていない。15世紀以降、ハプスブルク家大公=神聖ローマ皇帝なのだが、唯一の例外がマリア・テレジア

 

彼女はオーストリア大公やハンガリー女王、ボヘミア女王としてものすごい政治的手腕を振るったけど、神聖ローマ皇帝(女帝)の役職についたことはないので、「女帝マリア・テレジア」と言うのは正式には誤り。

 

マリア・テレジアが神聖ローマ皇帝になれなかった40年間は、3人の男性がその地位に就いた。ハプスブルク家の世襲を守るため、マリア・テレジアの父カール6世が、次の皇帝はマリア・テレジアの夫フランツ・シュテファンだと指名して亡くなったが、、

 

バイエルンのヴィッテルスバッハ家のカール7世という非ハプスブルクの人が、二代前のヨーゼフ1世の娘婿だとか言う理由で割って入った。しかし彼の在位はたった3年。やめときゃいいのに、マリア・テレジアが即位したてのオーストリアに攻め入り、逆に返り討ちに合って、領土も地位も奪われてしまう。

 

そして、二人目の穴埋め皇帝は、予定通りマリア・テレジアの夫のフランツ・シュテファン改めフランツ一世。妻はオーストリア大公、ハンガリー女王、ボヘミア女王でバリバリに領土を支配してるのに対し、夫は名誉職の神聖ローマ皇帝。

 

更にマリア・テレジアも、夫が皇帝になったからKaiserin(皇后)と言うことになり、Königin(女王)とKaiserin(皇后)の頭文字を取ったK.u.K.の称号を使うこととなる。

 

このラブラブ女王皇帝カップルは、マリー・アントワネットを含む11女5男をもうけた。けど、フランツ・シュテファンは妻の尻の敷かれてたというわけではなく、実は他にもいっぱい婚外子がいて、オーストリア人の半分は彼の子孫とかww(シュロスホフのガイドさん曰くw)

 

けど、穴埋め皇帝フランツ1世は、妻より15年も早く亡くなります。そのため、ハプスブルク帝国次期当主のヨーゼフ2世(倹約大好きw)が、父の跡を継いで神聖ローマ皇帝に。マリア・テレジアが亡くなり彼がオーストリアの大公になった時点では、すでに皇帝として15年のキャリアがあったのね

 

まあこの後は、オーストリア大公=神聖ローマ皇帝はマリア・テレジアの息子、息子、孫と三人続いて、神聖ローマ帝国自体がおしまいになります。次は、どうやって神聖ローマ帝国が終わり、オーストリア皇帝が誕生したかのお話です。

 

●皇帝を辞めて皇帝になる男

 

同一人物なのに、大公と皇帝で名前が違うので有名なのが、最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世。18世紀末から19世紀初めにかけて、ナポレオンの混乱の中で神聖ローマ帝国が崩壊した時(1806年)の皇帝としても有名。この人は策士だー!

 

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このフランツ2世は、神聖ローマ帝国が崩壊すると同時に皇帝としての称号を失い、ただの「オーストリア大公でハンガリーなどの王」に戻ったわけだが、転んでもただでは起きない。

 

自分はやっぱり皇帝のままがいい!それなら、ハプスブルク帝国としては初代の皇帝フランツ1世を自称しよう!と思い立ち、ここで初めて「オーストリア皇帝」が誕生する。同じ人物が、神聖ローマ帝国最後の皇帝フランツ2世→オーストリア帝国最初の皇帝フランツ1世にスライドしたわけですね。

 

●オーストリア皇帝、少な!

 

この後歴史上の「オーストリア皇帝」はたった四人

 

上述のフランツ1世(メッテルニヒとか起用した人)

 

フェルディナント1世(病弱)

 

フランツ・ヨーゼフ1世(突然の知ってる人wフェルディナント1世の弟フランツ・カール大公の長男で、シシィの夫)

 

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カール1世(皇太子ルドルフ自殺→皇太子フランツフェルディナンド、サラエボ事件で射殺の末に皇帝の位が回ってきた人で、フランツヨーゼフの弟の孫)

 

の4人でおしまい。

 

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カール1世

 

オーストリアってずっと帝国だと思ってたけど、実際にオーストリアが帝国で、君主が皇帝だったのって、たった4人だけだったのね!

 

まあ4人とは言っても、期間で言うと114年間。そのうち半分以上がフランツ・ヨーゼフの治世。フランツ・ヨーゼフ偉大だ。。

 

●まとめ

 

というわけで、オイゲン公の時代はオーストリアの君主はなんで皇帝じゃないの?ってところから、神聖ローマ帝国の歴史やら、ハプスブルク家やら、近代史に足ツッコむまで10世紀分くらい軽く進んでしまいましたw

 

点が線でつながったし、ハプスブルク家のしたたかさや柔軟さが実感できたし、調べてて楽しかった!横軸としてスペイン継承戦争やナポレオン等周りのごたごたを入れたら線が地図になって広がっていくけど今回はパスー。とりあえず流れや雰囲気が掴めて、登場人物のキャラがつかめたらまあいいかなー。

 

 

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2017-01-29 16:22 | カテゴリ:歴史

ウィーンの新名所、オイゲン公の冬の宮殿ヴィンターパレを取材して記事を書いたので、オイゲン公の時代について色々と調べていたら、どんどん面白いことがわかってきました。

 

オイゲン公。ハプスブルク家に仕えた軍人。連戦連勝で国家的英雄。

 

オイゲン公周辺の17-18世紀のオーストリアは、ミュージカルの舞台にもなってないし結構知識があやふやな気がする。バロックですごい面白い時代だけど、色々絡み合って複雑なので、わかりやすくまとめておきます。オーストリアの皇帝って何者?みたいな話もでてきます。

 

●オイゲン公からモーツァルトまでのハプスブルク家当主5人

 

まず、オイゲン公が遣えたハプスブルク家当主を並べると、レオポルト1世→ヨーゼフ1世→カール2世。ヨーゼフ1世とカール2世はそっくり兄弟で、白いふさふさロングカツラw弟のカール2世の娘がマリア・テレジア

 

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レオポルト1世
 
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ヨーゼフ1世
 
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カール2世(=カール6世)

 

オイゲン公(絵)の死後マリア・テレジアが即位。彼女の結婚相手として、オイゲン公はプロイセン王のフリードリヒを強く推薦してたのに、両想いのフランツ・シュテファンと結婚したので、オイゲン公は拗ねていた。マリア・テレジアの次は倹約好きのヨーゼフ2世で、この二人がモーツァルトの時代ね。

 

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マリア・テレジア

 

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マリア・テレジアファミリー。夫のフランツ・シュテファンは椅子に座ってる人。

 

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倹約大好きヨーゼフ2世

 

それでは、次回の記事では、上記の5人が、本当に皇帝だったのか、マリア・テレジアは本当に「女帝」だったのかを、検証していきます。

 


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2016-12-13 16:45 | カテゴリ:エリザベート(シシィ)の歴史

表題のニュースが新聞の日曜版の雑誌に載ったのは、10月半ばのこと。見つけて大興奮でツイートしたんですが、その後ブログ記事にしていなかったので、遅ればせながら記録のために記事にしておきますねー。

 

===10月16日のツイートまとめ===

 

本日のシシィスクープ。未発見のシシィの写真がイタリアで見つかり、ファンの手でウィーンのシシィ博物館に送られてきた。写真に撮られることを嫌ったシシィの数少ない写真。水兵さんと一緒に写ってるという事実も衝撃的。右端で横向いてるのがシシィ(拡大有り)

 

 

シシィの左でしゃがんでる女性が、姉のヘレネであることから、彼女がシシィをコルフ島に訪れた1861年と特定された。シシィ博物館の手にかかれば、撮影された場所と年を特定するのはカンタン!。この時期のシシィに関する記録が少ないことからも貴重な資料。

 

家族写真すら撮られることを嫌ったシシィが、水兵と写真に写っているという事実がスキャンダラスとも言われている。色々な意味でシシィの知られざる側面を切り取った貴重な資料だ。

 

===

 

これをまとめてみて気がついたけど、シシィってギリシャで肩にイカリのタトゥー入れたんだよね。これって水兵さんと何か関係あるのかな?

 

ちなみにシシィが1861年にコルフに行ったのは、シシィ24歳、ルドルフが3歳の時。咳の発作が止まらず、転地療法でその一年前にマデイラで6ヶ月過ごしたが、ウィーンに戻ると同時にまた発症。すぐにまたコルフへ出発し、4ヶ月過ごした。

 

ヘレネは故郷バイエルンで1859年に娘を出産して、子供が2歳のときにコルフまで妹を訪ねて行き、帰りにウィーンに立ち寄って皇帝に病状を報告している。その1年後に息子を出産。

 

なんだか二人共、子供が小さいのに長距離の旅行ってすごいタフだな。。一応転地療法なわけだけど、当時の旅行なんだから、移動だけでもヘトヘトになりそう。。

 

この1861年は、ウィーンを離れていたこともあり、シシィの記録が少なく、空白の年と言われている。しかし、このコルフ滞在のあとでウィーンに戻ったシシィは、急に自信に溢れた女性に生まれ変わっていた。可愛らしく幼稚なイメージから、才色兼備な女性へとイメチェンしたのも、このコルフ滞在を契機にしている。

 

例えば、当時の宮廷ではあり得なかったことだが、夫婦の寝室を分けるよう要求したのもこの時期。そして1865年にはあの有名な「最後通牒」を皇帝に突きつけ、その次の年からはハンガリーを好み、政治にも感心を示すようになった。

 

というわけで、このコルフ滞在は、シシィの人生にとって何らかの大きな転機になった時期かもしれない。そんな重要な資料になりうる写真が、今回発見されたということになる。

 


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2016-03-11 16:28 | カテゴリ:モーツァルトの歴史

モーツァルトと磁気療法で有名なメスマー博士の関係について、ちょっとだけ書く予定が、調べて行ったらどんどんハマってしまい、気がついたら8記事目。。

 

というわけで、そろそろまとめに入ります。

 

●史実まとめ

 

まず、史実としてメスマーは、金持ちの未亡人と結婚した有名な医師として、10代のモーツァルトのパトロンだったことは記録に残っています。

 

12歳と16歳のモーツァルトの世話をして、オペラの作曲や自宅での演奏会を依頼しています。ヨーロッパ旅行に飛び回っていたモーツァルト一家にとって、ウィーンでの頼りになるクライアントといったところでしょうか。

 

また、モーツァルトは後に、オペラ「コシ・ファン・トゥッテ」の中で、メスマーの磁気療法に言及しています。

 

●ミュージカルの登場シーンまとめ

 

上記の記録に残っているメスマーとモーツァルトの交流の内、ミュージカルに登場するのは12歳の時のメスマー邸での演奏会のみです。ただし、この場面は初演版のみで、ウィーン新演出版ではモーツァルト6歳でのシェーンブルン宮殿での演奏会に差し替えられています。

 

また、ミュージカルのプロローグで登場する、コンスタンツェを連れてのモーツァルトの墓探しは、史実ではない可能性が高いです。また、2幕プロローグとフィナーレで登場する墓場のシーンは、新演出版ではカットされています。

 

さらに、「神よなぜ許される」の画面でコロレドに脳みそを送りつけてくるのもメスマーですが、こちらも歴史的には無理っぽいです。

 

というわけで、表にまとめてみました。

 

モーツァルトの年齢 ミュージカルのシーン(ウィーン初演・ハンブルク、日本) ミュージカルのシーン(ウィーン新演出) 出来事 場所 その場にいた人物 史実?
1809 死後18年 プロローグ プロローグ モーツァルトの頭蓋骨探し サンクト・マルクス墓地 コンスタンツェ・墓掘り 史実ではない?(メスマーウィーン追放後)
1762 6   1幕最初 演奏会・コートを下賜される シェーンブルン宮殿 鏡の間ORローザの間 マリア・テレジア・カール1世、レオポルト、ナンネール 史実(レオポルトの手紙)ただしコートは赤ではない。
1768 12 1幕最初   演奏会 ウィーンLandstrasseのメスマーの自宅の庭/室内 メスマー、レオポルト、サリエリほか 史実(レオポルトの手紙)
1772/8 16     演奏会 ウィーンLandstrasseのメスマーの自宅の庭 メスマー、レオポルト 史実(レオポルトの手紙)
1772/9 16     訪問 Rothmuehle城 メスマー、レオポルト 史実(レオポルトの手紙)
(1777)       メスマー、ウィーン追放。パリへ。     史実
  死後18年 2幕プロローグ   モーツァルトの頭蓋骨探し・ サンクト・マルクス墓地 コンスタンツェ 史実ではない?(メスマーウィーン追放後)
1781/10 25 「ここはウィーン」   モーツァルトのピアノコンサート。その後客が「ここはウィーン」を歌う。 カプツィーナ教会向かいの市営カジノMehlgrube メスマー・サリエリ、男爵夫人、シカネーダー他 史実ではない?(メスマーウィーン追放後)
1782/8 26   「ここはウィーン」 オペラ「後宮からの誘拐」初演。その後「ここはウィーン: ミヒャエル広場の旧ブルク劇場舞台&劇場前(背景は国立オペラ座) ヨーゼフII世 史実
(1784)       メスマー、パリとドイツで療法を否定される。     史実
1784-5 28 「神よなぜ許される」 「神よなぜ許される」 脳みその配達 ザルツブルク コロレド・アルコ 史実ではない?(メスマーウィーン追放後)
(1793)       メスマー、離婚した妻の遺産整理のため再びウィーンを訪問し、再度追放。      
1809 死後18年   フィナーレ モーツァルトの頭蓋骨発見 サンクト・マルクス墓地 コンスタンツェ 史実ではない?(メスマーウィーン追放後)

 

●ミュージカルモーツァルト!でのメスマーの役割

 

しかし、初演当時の生身のメスマーの登場シーンである、プロローグ、2幕始め、フィナーレの内、後の2つがカットされちゃったら、あのプロローグがかなり他の部分と関係なくなって、浮いてくるなー。

 

おまけに脳みそコレクションも史実でないとすれば、あれはかろうじてメスマーを忘れないでアピールだったのかなw.

 

これはやはり、メスマーが当初もっとはっきりした狂言回し役だったという説が色濃くなってきましたねー。メスマーの登場シーンは、初演に至るまででもかなりカットされて、それが新演出版になると、プロローグと脳みそコレクションだけが残されちゃったんだね。。とっても重要なはずの神童コンサートですら、もっと有名なシェーンブルンのコンサートに置き換えられてしまったんだし、、。

 

なんだか、インチキ医者とか色々と言われてる上に、登場シーンも差し替えたりカットされたして、メスマーが段々かわいそうになってきた。。それも、10代のモーツァルトがものすごくお世話になってたって、レオポルトの手紙読んでてすごく感じたし、恩人なわけだし。

 

●まとめ

 

けど、別にモーツァルト!のメスマーの登場シーンが史実か史実じゃないかは、ミュージカルの本筋と関係ないから、別に重箱の隅を突くつもりはないんです。単に調べてて楽しかっただけw

 

クンツェ氏もインタビューで「歴史的に正確であろうと思ったわけでは全くありません」「現代の観客のために、当時の人物を動かしているのです」って言ってるし、メスマーてほんといてもいなくてもいいキャラだしね。。

 

けど、メスマーに着目してみたら、意外な初演と新演出版の違いや、それによる変更の影響が見えてきて、とっても面白かった!田舎の城一個訪れるだけで、ここまで記事が書けてしまうんだから、モーツァルトを巡る史実、ほんと面白い!

 

モーツァルト、メスマー、コロレドと、同時代に生きた個性の強い人物たち。こんな濃い人たちが、このウィーンでウロウロしてたなんで、考えるだけでもワクワクしますね。ちょっと今度、Landstrasseのメスマー邸を見に行ってみようかなー。

 

 

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2016-03-09 16:23 | カテゴリ:モーツァルトの歴史

ここまで検証してきて、1809年にコンスタンツェが、メスマーとサンクト・マルクス墓地にいるのは難しいのでは?という流れになってきました。

 

それでは、メスマーとサンクトマルクス墓地は無関係だったんでしょうか?これには、興味深い事実が出てきました。

 

メスマーの有名な患者に、盲目の女性作曲家でピアニストの、マリア・テレジア・パラディスMaria Theresia Paradisという人がいます。

 

この人もモーツァルトの同時代人で、おまけにメスマーを取り巻く音楽家ですので、当然モーツァルトとも親交があります。モーツァルトの『ピアノ協奏曲第18番 変ロ長調』はパラディスのために書かれたと言われています。

 

彼女は3歳頃で視力を失い、18歳になった1766年から11年間、メスマーの治療を受けました。

 

その催眠療法で使われた「グラス・ハーモニカ」という謎の楽器は、当時人を死に至らしめると言われていたため、メスマーはこの治療のために、ウィーンを追放されることになります。(これが理由で、再度妻の遺産整理のためにウィーンに戻ってきても、またすぐ追放されてしまったんですね。。)

 

少し後の時代のものだけど、グラス・ハーモニカってこんなもの。

 

こうやって演奏するらしい。 

 

あと、磁石を使って催眠療法をしている時のメスマーが像になってました。

 

Mesmer. Plastik von Peter Lenk auf der Hafenmole von Meersburg

 

つまり、メスマーの最も有名な患者で、彼の没落の引き金ともなった人の遺体が眠る墓地が、サンクトマルクスだったということは史実です。もしかしてメスマーは、モーツァルトじゃなくてこの盲目の女性音楽家を探していたのでは?なんて勘ぐってしまいます。

 

(次回、モーツァルトとメスマーの関係をまとめます)

 

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2016-03-07 16:21 | カテゴリ:モーツァルトの歴史

ウィーンミュージカル、モーツァルト!で超脇役で登場するメスマー博士と、モーツァルトの交流について、史実を検証していくシリーズ第6弾です。

 

モーツァルト!に関する記事は、モーツァルト!カテゴリからどうぞ。

 

●ウィーン新演出版で削られた、第二の墓場のシーン

 

・2幕プロローグの墓場

 

ウィーン初演版(ハンブルク版、日本版も)では、1幕のプロローグだけではなく、2幕の始め(プロローグ)もこの墓場のシーンで始まります。

 

コンスタンツェに墓の位置を指定された墓掘りが墓を掘り始め(正しい位置かは別として)、メスマーはモーツァルトに性格ついてコンスタンツェに質問しますが、コンスタンツェは口を閉ざします。

 

ここで興味深いのは、モーツァルトとの関係について、メスマーは「もちろん何度か遠目に見たことはあるけれど」「彼の性格は特異で変わっていたように見受けられたが」とありますが、遠目に見たと言うより、あなた10代のモーツァルトのパトロンで、16歳のモーツァルトはあなたの所に入り浸ってたんじゃなかった?

 

このシーンはウィーン新演出版ではカットされていて、2幕はいきなり「ここはウィーン」からスタートしますね。

 

 

・旧版「ここはウィーン!」のメスマー

 

そして、次の「ここはウィーン」のシーンにもメスマーはいます。この場面、ハンブルク版のリブレットによると、ウィーン(カプツィーナ教会向かいの市営カジノMehlgrube)でのピアノコンサートのあと、メスマー、シカネーダー、男爵夫人を含む観客がウィーンについて色々話してるわけですが、この歌の一番スパイスの聞いている「ナイフを隠して手にキスをする」のソロパート、歌ってるのメスマーだ!

 

メスマー本人が一番、このウィーンの怖さを知っていた人だから、ものすごい説得力あるわ。。この名言を彼に言わせたクンツェ氏すごい!

 

けどね。。この場面にもメスマーは登場できないはずなんだよね。。だって、前述のとおり、メスマーは1777年にウィーンを追放されてるので、この場面の1781年にウィーンにいるのは無理なんだよね。。

 

・新演出版の「ここはウィーン」

 

そしてこのシーン、新演出版では、ミヒャエル広場の旧ブルク劇場の舞台と場所が変わっていて、オペラ「後宮からの誘拐」上演後となっています。皇帝ヨーゼフII世も出てきてますね。

 

ちなみにこの作品は、ヨーゼフII世の命で作られ、旧ブルク劇場で1783年に初演されたので、この事自体は史実です。(背景に使われているのは国立オペラ座の正面玄関ですけど、これはわかりすぎるくらいの転用ですので、間違いと言うのは野暮ですねw)

 

この「ここはウィーン」新演出版の場面にメスマーが目立つ形でいたかどうかはわかりません。

 

 

というわけで、「ここはウィーン」のシーンの場所も登場人物も、ガラッと変わってしまいましたね。年は1782年が1783年に変わっただけで、モーツァルトの年齢も25-26歳なので、大きな影響はないのかもしれません。

 

 

●ラストシーンで再び登場するメスマー

 

あらすじ(初演版、新演出版)によると、ヴォルフガングの死後、ナンネールが小箱を開ける前に、再びメスマーが登場すると書かれています。

 

Auf dem St. Marxer Friedhof hält Mesmer einen ausgegrabenen

Menschenschädel in die Höhe.

 

「サンクトマルクス墓地では、メスマーが掘り出された頭蓋骨を取り出し、高く掲げる」

 

えっと。。新演出版でこのシーン見た記憶ないんですけど。。2幕始めの墓地のシーンと同じく、完全にカットされていると思われます。そもそもモーツァルトの頭蓋骨特定できるわけないしね。。

 

・この場面の詳細

 

ハンブルク版のリブレットを見てみますと、

 

チェチェリア・ヴェーバーがヴォルフガングの死を確認し、レクイエムの報酬として得た金を発見して喜ぶ

→舞台の別の場所で、メスマーが頭蓋骨を興奮して手に取り、コンスタンツェに目もくれず、報酬の入った袋を渡す。金を数えるコンスタンツェ。

→ナンネールがモーツァルトの目を閉じてやり、小箱を開ける、

 

という流れになります。

 

新演出版では、墓場のシーンがカットされ、チェチェリア→ナンネールの順番で入ってきます。チェチェリアの金の小袋もなかった気が。

 

旧版は、チェチェリアの金→コンスタンツェの金→ナンネールの小箱、という流れがとてもきれいな印象です。

 

新板は、なぜ唐突にチェチェリア?で次がナンネールで、目を閉じてあげるのね。からの、小箱(Der Prinz ist fortが流れる)という流れでした。少し疑問が残ったのを覚えています。

 

 

 

(次は、インチキと言われたメスマーの療法に迫ります)

 

 

 

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2016-03-05 16:12 | カテゴリ:モーツァルトの歴史

ミュージカル「モーツァルト!」でのメスマー登場シーンの検証続きです。

 

モーツァルト!に関する記事は、モーツァルト!カテゴリからどうぞ。

 

●メスマーと脳みそコレクション

 

あと、「神よなぜ許される」のシーンで、コロレドに脳みそ送り付けたのもメスマーでしたね。これも史実なのか、メスマーという同時代の有名人を出したかっただけなのか、検証してみました。

 

コロレド

 

FranzMesmer_thumb[2]_thumb

メスマー

 

コロレドの「神よなぜ許される」の直前に、アルコは、「画家の脳みそが、パリのメスマー教授から届きました」と言って、ホルマリン漬けの脳みそを持ってきていましたね。

 

ハンガリー版では、コロレドはそもそも脳みそコレクションルームで「神よなぜ許される」を歌います。コロレドもメスマーも脳みそマニアでコレクター仲間です(笑)

 

けど、ぱっと調べた感じ、コロレドが脳みそコレクションをしていたという話もないし、コロレドとメスマーが交流があったという話も見つかりません。

 

一応、この「神よなぜ愛される」の歌は、コロレドの「芸術の部屋」と呼ばれる場所を舞台としているとリブレットの記されています。「ここには、美術品のレプリカや動物の剥製が置かれている」とされ、コロレドが神と芸術を思考するための部屋ということがわかります。まあ、剥製があったらホルマリン漬けもありそうな気もしますが。

 

コロレド自身知識人で、自然科学から音楽からいろんなことを専門家並みに知っていたので、医学と芸術との関連を脳みそから調査しようと思っていても不思議ではありません。それに、そのコレクションにメスマーが協力していたというのも、あながち嘘ではない気がしてきました。

 

しかしそもそもメスマーは、当時王様レベルの偉い人だったコロレドに、脳みそを送れる立場だったんでしょうか?

 

・メスマーの脳みそ送りつけ事件を検証

 

それでは、メスマーがコロレドに脳みそを送りつけたかどうかを検証してみます。

 

まずはこの脳みそが送られた時期と場所を特定します。場所はアルコが「パリ」と言っていますので簡単ですね。

 

時期は、Der Prinz ist fort(ナンネールが貧しい恋人Franz Armand d'Ippoldと結婚したくてお金がないので、モーツァルトにお金の無心をした)とレオポルトのウィーン訪問の間です。

 

ナンネールが結局この貧しい恋人と結婚させてもらえず、金持ちの15才年上の男の3番目の妻になるが1784年です。また、「神はなぜ許される」の途中でレオポルトが入ってきて、ナンネールの子レオポルトを次の神童にする、という場面がありますが、このレオポルトの孫レオポルトの生年はわかりません。

 

ハンブルク版リブレットによると、次のシーンが1785年3月ザルツブルク(新演出版で削られたシーン、ウィーンに行った父の手紙を読むナンネールと夫の会話のシーン)なので、「神はなぜ許される」とメスマーからのコンタクトは1784~85年の間のどこかの時点ですね。

 

それでは、この間メスマーはどこにいたでしょう?

 

1784年はメスマーにとって重要な年です。当時パリにいたメスマーは、当時の科学者たちの会議にて、彼の手法の一つが否定され、失意の内にパリを去り、イギリス、その後ドイツに行きます。

 

更に翌年、ドイツのライン川沿いの町バーデンにて、同じく彼の磁気療法が否定され、1788年にはドイツのカールスルーエにいたとされています。

 

まあ、パリに行ったりできなくもない距離ですが、メスマの没落の始まりと言っていい時代に、のんきにコロレドに脳みそ送ってる場合なのでしょうかね?

 

おまけにメスマーは、1777年に謎の笛を使った治療法が民衆を不安に陥れるとして、ウィーンから追放されている身です。そんな怪しい人物と、王様レベルのコロレドが親交を持つかどうかも少し疑問に思います。

 

 

(次回で、ウィーン新演出版でカットされた、メスマーの出番を検証します。)

 

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2016-03-03 16:12 | カテゴリ:モーツァルトの歴史

モーツァルトとメスマー博士の関係について、モーツァルト!のミュージカルから史実を検証しています。

 

モーツァルト!に関する記事は、モーツァルト!カテゴリからどうぞ。

 

今回は、プロローグでメスマーとコンスタンツェが、モーツァルトの遺体を探しに行く、サンクトマルクス墓地について調べてみました。

 

・メスマはコンスタンツェとサンクトマルクス墓地に行ったのか?

 

サンクト・マルクス墓地のモーツァルトが埋められたっぽい場所に建てられた「嘆きの天使」

 

さて、最初に戻って、メスマーは本当にコンスタンツェとサンクトマルクス墓地に行ったんでしょうか?そして、モーツァルトの遺体を発見したんでしょうか?

 

色々調べてみましたが、これを証明する史実は出てきませんでした。

 

メスマーはウィーンで活躍した後パリに行きましたが、その後人気が落ち、フランス、ウィーン、スイスとウロウロします。最後の20年間に何をしていたかはあまりよくわかっていません。

 

ということは、コンスタンツェと一緒にサンクトマルクス墓地にいた1809年のメスマーは、40年前のモーツァルトのパトロンだった頃のイケイケハイテク医者ではもうなかったということです

 

モーツァルト部分以外のサンクト・マルクス墓地の奥の方はこんな感じ。時間が止まったようで雰囲気があります。

 

・メスマーの住処

 

それでは、このあたりのメスマーの動向を追ってみましょう。1801年までパリにいた事が確認されていて、1809年から1812年にはスイスにいたことがわかっています。物理的に1809年にウィーンにいるのは結構無駄な移動が発生する気がしますね。

 

・メスマーのウィーン追放

 

更に、彼のウィーン訪問を難しくする裏付けがあります。1777年の時点でメスマーは一度目のウィーン追放を命じられています。そしてパリで一通り活躍するわけですね。

 

そして、1793年9月、彼は離婚した妻の遺産整理のため、再びこっそりウィーンに舞い戻ります。しかし、この時スパイに付けられていました。11月に逮捕され、12月にはウィーンを再追放されました。

 

二回も追放されているのに(おまけにスパイまでついてるのに)、1809年にまた戻ってくるって無理がないですか?それも、わざわざフランスかスイスから、モーツァルトの遺体を探しに、このタイミングでウィーンに戻ってくるでしょうか?なんとなく無理な気もしますが。。

 

というわけで、ウィーンから2度も追放されたメスマーがコンスタンツェとサンクトマルクス墓地に行ってモーツァルトの遺体を探した、という話は、史実っぽくない気がします。

 

 

●メスマーはモーツァルトマニア?

 

メスマーが本当にモーツァルトの墓を探しだして遺体を掘り出そうとしたとして、どうしてそんなものが欲しかったんでしょう?ミュージカルでは、メスマーは脳みそマニアだったようですし、もしかしたら昔パトロンを務めた神童の大ファンで、モーツァルトマニアだったのかもしれません。

 

しかし、メスマーが脳みそマニアという史実も、モーツァルトマニアという史実も、残念ながら見つかりませんでした。なんでこんなところで脳内で盛り上がって、ミュージカルまで始めてしまったのか、ちょっとわかりませんね。。

 

モーツァルトマニアと言えば、コンスタンツェと、その再婚夫のニッセンなので(モーツァルトの作品や遺稿を整理したり、ニッセンは伝記を書いたりした)、この二人こそモーツァルトの墓を必死で探したのでは?という気もするけど。

 

コンスタンツェの絵

 

10年位前に新発見されて大騒ぎになった、晩年のコンスタンツェの写真

 

コンスタンツェの二番目の夫ニッセン

 

 

(次回は、コロレドとメスマーの関係に迫ってみます)

 

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2016-03-01 16:12 | カテゴリ:モーツァルトの歴史

偶然訪れた田舎のお城がメスマー博士の居城で、モーツァルトが訪れたことがあるという史実を発見し、そこから取り憑かれたようにメスマーについて調べ出しました。

 

今回は、モーツァルト!のミュージカルに登場するメスマーとモーツァルトの関係について紐解いてみます。

 

モーツァルト!に関する記事は、モーツァルト!カテゴリからどうぞ。

 

モーツァルト

 

FranzMesmer_thumb[2]

メスマー

 

 

この二人が直接会って話すシーンはミュージカル「モーツァルト!」ではありませんが、メスマーは同時代の有名人だけあって、チラチラと名前が出てきます。

 

新演出版に限ると、メスマーが登場するのは2箇所。プロローグとコロレドに脳みそを送りつけるところです。生身で登場するのはプロローグだけですね。おまけにモーツァルト死後ですし。有名人な割に、なんでここだけ登場するの?って少し思っていました。

 

今回調べてみて、昔はメスマーはこの作品でもっと重要な立場であったことがわかりました。こんな視点からこの作品を見て、新しい発見があるとは。。

 

●プロローグ

 

まず、メスマーが一番目立つのはプロローグのコンスタンツェとの会話。メスマーがサンクト・マルクス共同墓地で、金と引き換えにモーツァルトの埋葬された場所をコンスタンツェに特定してくれと頼む場面ですね。

 

サンクト・マルクス墓地のモーツァルトが埋められたっぽい場所に建てられた「嘆きの天使」

 

おそらくメスマーは、モーツァルトの頭蓋骨と脳みその痕跡目当てだったと思われますが(後で脳みそのホルマリン漬けをコロレドに送りつけてるので)、コンスタンツェは墓地の埋葬に同行していないので、どこに埋葬されているかわからないはずです。

 

あらすじや台本では、このサンクトマルクス墓地訪問は1809年11月18日となっています。ここで、40年前のモーツァルトの神童ぶりを思い出すメスマーが脳内で盛り上がって、ミュージカルがスタートします。

 

(この墓地のシーンは、後で詳しく検証します)

 

神童モーツァルトのピアノ披露はいつどこで?

 

★12歳でメスマー邸(ウィーン初演、ハンブルク版、日本版)

 

前のプロローグでメスマーの脳内から物語が展開してるので、次の子供モーツァルトがピアノを披露している場面は、メスマー邸なんです。少なくとも初演版では。

 

(注:ウィーン初演版、ハンブルク版、日本版ともに、この場面はメスマー邸です)

 

・メスマー邸でのモーツァルトの年齢と史実

 

メスマーは実際10代のモーツァルトのパトロンだったので、実際のメスマーの自宅で演奏したと、記録に残っています。

 

この演奏がRothmuehle城だったらいいのになーと調べてみましたが、モーツァルトがRothmuehle城を訪れたのは1772年なので16歳。この場面の神童モーツァルトは1768年5月、12歳です。

 

モーツァルト12歳の年、メスマーの依頼で歌劇「バスティアンとバスティエンヌ」を書き、ウィーンのメスマーの自宅にて初演されました。(作曲したことは史実ですが、初演に関しては反対意見もあります)

 

メスマーは当時ウィーンのLandstrasse 261に住んでいましたが、この家には研究室やクリニックの他に、大きな庭と劇場があったとのことですので、モーツァルトが演奏するにはぴったりですね!

 

モーツァルトはこの頃、パトロンであるメスマーのために歌劇を作曲したり、演奏会を開いたりしていましたので、この場面はそんな演奏会の一つだと言えます。

 

この時期ピッタリの12歳のモーツァルトの絵がありました!

 

Wolfgang child - 1770

Vienna, 30 July 1768  (1770年?)

12歳(14歳?)のモーツァルト。赤いコートを着ているが、これはマリア・テレジアにもらったものとは別物。

 

・ミュージカル的には、メスマー邸のどこで演奏した?

 

さて、この最初のピアノ披露のシーンが初演でメスマー邸だとしたら、一体場所はどこなんでしょう?Wikipediaのあらすじ(初演当時ののままで、新演出版仕様になってない)によると、こう書いてあります。

 

Am Grab angekommen, erinnert sich Mesmer an den Auftritt des Wunderknaben vor vierzig Jahren auf der Freiluftbühne im Barockgarten seiner Wiener Villa.

 

ってことは、やはり場所は「ウィーンにあるメスマー邸のバロック庭園の野外ステージ」ということで、Rothmuehle城ではないってことですね。

 

 

ちなみに、ハンブルク版のリブレットでは、In einem Baroksaal (…) auf Einladung des Arztes Dr. Anton Mesmerとあるので、「バロックの間にて、医者であるアントン・メスマー博士の招きに応じて」となっています。この場には、サリエリや男爵夫人もいて、アマデは「マリア・テレジアにプレゼントされた、マキシミリアンのコートを着ている」とあります。写真ではアマデは赤いコートを着ています。

 

また、リブレットでは、Auf Wolfgang Amade Mozart!と乾杯の音頭を取るのがメスマーです。(それ以外に一人で言葉を発する場面はありません)

 

・メスマーはルキーニ?

 

この話をちらっとツイッターに書いたら、フォロワーさんが「元々メスマーは、モーツァルト!の狂言回し的な位置づけの予定だったのではないか」とおっしゃっていました。

 

モーツァルト!のルキーニはメスマー!若いころ大人気で、晩年は惨めだったり、ヨーロッパ中飛び回った「天才」だったり、共通点が多いし、ありえますねー。

 

★6歳でシェーンブルン宮殿(ウィーン新演出版)

 

ウィーン初演版、ハンブルク版、日本版では12才でメスマー邸で演奏していたモーツァルトですが、新演出版ではシェーンブルン宮殿でマリア・テレジアの前で演奏しています。これっていつのことなんでしょう?

 

・シェーンブルン宮殿での御前演奏の史実

 

モーツァルトがマリア・テレジアに呼ばれて、シェーンブルン宮殿で演奏したのは、1762年10月13日(時間帯は15-18時)ですので、12才どころか6歳の時です。(ソース:Wolfgang Amadeus Mozart – 1762 in Passau | Mozart in Passau 1762

 

これが1763年のモーツァルト。マリアテレジアの前で演奏した一年後の7歳。この服、マリア・テレジアにもらったもの。赤くないよね?

 

・シェーンブルン宮殿のどこ?

 

演奏会が開かれた部屋は、鏡の間かローザの間だと言われています。

 

鏡の間はこの部屋

Das Spiegelzimmer (Zustand 1860)

 

ローザの間Rosa Zimmerはこちら

 

 

Die Große Galerie (1961) ←これが、新演出版の背景の部屋じゃない?鏡の間じゃなくて大広間だった。。それも古いバージョン。

 

Große Galerie 2015←最近改装したらしいから、これが今の大広間。

 

部屋を見比べてみたら、新演出版の背景の大広間はちょっと大きすぎるよね。鏡の間かローザの間くらいのサイズが、こういう演奏会にはちょうどいい感じ。

 

・その場にいたのはだれ?

 

モーツァルトは、父レオポルトと姉ナンネールとともに、マリア・テレジアとその夫フランツ1世の前で演奏しました。

 

この時に7歳のマリー・アントワネットにプロポーズしたという伝説もありますね。こちらは伝説だろうと言われていますが、その場にいた人の目撃談として、モーツァルトは演奏後マリア・テレジアの膝に飛び乗って抱きついたという話があり、こちらは真実らしいです。もちろん新演出版モーツァルト!でも膝に飛び乗っていますね♪

 

父レオポルトが知人に書いた手紙で、その様子が目に浮かぶように書かれています。

 

„der Kayserin auf die Schooß gesprungen, sie um den Halß bekommen, und rechtschaffen abgeküßt“.

 

「(ヴォルフガングは)女帝の膝に飛び乗り、首に手を回し、キスをした」

 

また、この御前演奏のご褒美として、史実では上記の絵画で描かれたコートをマリア・テレジアから二日後に贈られます。(舞台では赤いコートを女帝本人から着せてもらう)

 

・ミュージカル版のシェーンブルン宮殿の演奏シーン

 

モーツァルト!新演出版のプログラムを見ると、シェーンブルンでの演奏の年は書いていませんが、そのあとで「14年後に大人になったモーツァルトは~」との記述がありますので、シェーンブルンのシーンは6歳だと推測できます。

 

また、演奏の場所は、シーン紹介では「シェーンブルン宮殿のサロン」とされていますが、背景画は改装前の大広間のように見えます。

 

それでは、エピソード毎に史実チェック!

・シェーンブルン宮殿の演奏は、史実も新演出版も6歳。

・マリア・テレジアの膝に飛び乗ってキスしたのは史実。

・演奏された場所は、史実では鏡の間かローザの間。舞台の背景画は改装前の大広間

・マリア・テレジアから贈られたコートは水色(薄い紫?)で赤ではないあ。また、その場で手渡されたものではなく、後日贈られた。

 

・まとめ

 

というわけで、新演出版では、この「神童披露」の場面は、初演のメスマー邸で12才からシェーンブルン宮殿で6才に完全に変更したようですね。

 

旧版プロローグのメスマー邸での演奏も、新演出版のシェーンブルン宮殿の6才の演奏会も史実です。後はどちらを取るか(メスマーを強調した筋にするか、メスマーを捨てて観光客受けを良くするか)ってことですね。アマデの見た目の年齢は6歳でも12歳でも取れる感じです。

 

(次回はプロローグの謎、メスマーと墓地について紐解きます)

 

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2016-02-24 16:35 | カテゴリ:モーツァルトの歴史

  モーツァルトとメスマーが実際に会っていた場所を偶然訪れ、二人の関係が気になって調べてみました。もちろんミュージカルにメスマー博士の名前は出てきますしね。

 

ミュージカルでの出番については、後で詳しく検証しますので、今回は先に、史実でのモーツァルトとメスマーの親交について調べてみました。 

 

モーツァルト

 

FranzMesmer_thumb[2]_thumb

メスマー

 

 

メスマーは10代の頃のモーツァルトのパトロンでした。以下がわかっている史実です。

 

・12歳の頃のモーツァルトは、メスマーに依頼されてディヴェルティメンティとオペラ「バスティアンとバスティエンヌ」(1768)を作曲した 。

 

「バスティアンとバスティエンヌ」初演はメスマー邸だったという話もある。(コンスタンツェの二番目の夫でモーツァルト研究家のニッセン氏は裏付けがないとしているが、多くの人が初演はメスマー邸だったと主張)

 

・1773年16歳のモーツァルトはザルツブルクからウィーンを2ヶ月ほど訪れたが、この時滞在期間中メスマーにとてもお世話になっている。

 

この滞在中、レオポルトやヴォルフガングはナンネールにほぼ3日に一階手紙を書いていますが、そのほとんどすべての手紙には、メスマーの名前が登場します。実際読んでみて、こんなにメスマーメスマー言っているとは驚きです。 (ソースBriefe und Aufzeichnungen←モーツァルテウムのモーツァルトの手紙データベース)

 

Landstrasseにあるメスマー邸で食事を一緒にしたり、メスマーの母親がなくなった話題を出したり、メスマーの患者さんの名前や、治療の道具のガラス器具の話をしたりしています。

 

 

・このウィーン滞在中の1773年8月18日に、ウィーンのメスマー邸の庭での大音楽会で演奏した。そのとき「ディヴェルティメント第7番ニ長調」(K.205)が演奏されたともいわれる。 (ソース:Mozart con grazia

 

letztς Posttag hab ich nicht geschriebς, dan wir hattς eine grosse Musik auf der Landstrasse im Garten.(1773/8/21の手紙)

 

「前回の手紙集配日に手紙を書かなかったのは、Landstrasse庭で大きな演奏会があったからです。」

 

・1773年9月22日にメスマーの居城Rothmuehleを訪れている。(城の入口に記載あり)

 

IMG_7708_thumb[1]

お城の入口。ひょろ撮影。

 

その日の父レオポルトからナンネールへの手紙

 

  Wien dς 22tς Septς:
                                                                                                                     1773.
Ich sehe vor, daß ich vor dem freÿtage odς gar vor dem Samstage nicht werde
abreisen könnς, dan heute sind wir endlich einmal um halbe 12 uhr Mittags
auf die Rottmühl gefahren, und abends nach 7 uhr wiedς zurückgekehrt.
Morgen wird es also ohnmöglich seÿn alles in Ordnung zu bringς: folglich werde
wohl am Samstage abreisen. Alle empfehlς sich! Ich weis eben nichts
andςs zu schreibς. Ich schreibe in Eÿl beÿ dem Jungς hς: v Messmer,
mit dessς frau Gemahlin wir auf dς Rottmühl warς.
Lebts demnach alle wohl! ich Eÿle um die Post nicht zu versäumς.
dies wird also mein letzter Brief seÿn. wir empfς: uns allς
gutς freundς und freundinς in und ausser dem Hause, kissς euch
viel 10000000 mahl u bin dein alter

Briefe und Aufzeichnungen 1773/9/22

 

Rothmuehle城での滞在は昼ごろから夕方7時ウィーン帰着となっていますので、宿泊したわけではなさそうです。また、手紙の後半ではメスマーの名前とその妻、城についても再び言及しています。

 

・メスマーはモーツァルトの肩こりの治療をしていた?(これは資料が見つかりませんでした。。)

 

・メスマーがあのmesmerizeの語源となった催眠療法や磁気療法に傾倒するのは1774年からで、当時はまだ一開業医だったっぽい。メスマーの妻が金持ち未亡人だったから、城に住んでパトロンになれた模様。

 

メスマーの動物磁気治療の様子。

 

ただし、レオポルトの手紙に、1773年に後のメスマーを有名にするグラス・ハーモニカという謎の楽器を演奏していたと書かれています。このグラス・ハーモニカをMiss Davisとレオポルトは呼んでいました。なので、後のメスマー療法のちょうど始まりの時期だったのでしょう。

 

 

・後にモーツァルトはオペラ「コシ・ファン・トゥッテ」(1790)で、磁石で治療するシーンを挿入し(作詞のダポンテに掛け合ってわざわざ入れてもらったとか)、メスマーの治療法に言及した。

 

登場シーンは1幕のラスト。

 

あらすじ(Wikipedia)によると、こんな感じ。

 

姉妹は庭で恋人を想う二重唱を歌う。そこへ変装したフェルランドとグリエルモが現れ、絶望のあまり毒を飲んだふりをする。姉妹は驚き、変装した二人に同情しかかる。医者に変装したデスピーナが現れ、「磁気療法」を二人にほどこす。デスピーナは、のた打ち回る二人を支えるように姉妹に命ずる。意識を取り戻した二人は姉妹にキスを迫り、混乱のうちに幕を閉じる。

 

コシは、男二人と女二人の恋の駆け引きの楽しく軽い話なので、男二人が、磁気治療医者に変装した別の女に、ニセの毒薬効果を偽の磁気治療で直してもらい、2カップル登場してめでたしめでたしってわけですねw.

 

該当の歌詞:

In poch'ore, lo vedrete,
Per virtù del magnetismo
Finirà quel parossismo,
Torneranno al primo umor.

 

磁気治療のおかげで発作が終わり

元の楽しい様子に戻ります」

 

2幕にもこんな歌詞が登場します。

Ed al magnetico signor dottore
Rendo l'onore
Che meritò!

 

セニョール・磁気ドクター

あなたに名誉を与えます。」

 

 

というわけで、12歳の時にオペラ作曲を依頼、自宅でオペラの初演(たぶん)、16歳の時に自宅で大演奏会、さらに、ウィーンから結構離れた田舎の居城までわざわざ訪問、極めつけは、後々人気作品で磁気療法を取り上げてネタにするなど、この二人の関係はかなり深かったと言えるでしょう。

 

レオポルトからナンネールへの手紙にも、メスマーの名前は多く登場しますし、コシでおちょくったとはいえ、モーツァルトの10代を支えてくれた恩人なわけですから、メスマーに感謝していたのではないでしょうか

 

(次回は、ミュージカルの中に出てくるメスマーを検証してみます)

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2016-02-22 16:35 | カテゴリ:モーツァルトの歴史

12月くらいに、中世騎士祭りがあって、Schwechat方面にあるSchloss Rothmuehleというお城に行ってきました。

 

Rothmuehle_Main01

お城外観(公式サイトよりRothmühle

 

そしたらなんと、入り口に、「1773年9月22日に、ここに住んでいたメスマー博士を訪ねて、モーツァルトが逗留したことがある」ってて書いてあるじゃないですか!

 

IMG_7708

お城の入口。ひょろ撮影。

 

IMG_7709-crop

お城の入口に貼ってある、モーツァルト滞在の記念プレート。ひょろ撮影

 

●お城について

 

このSchloss Rothmuehle、昔メスマー教授の妻が所有していて、二人はここに住んでいたとか。モーツァルトがここに住むメスマーを訪れているなんて!中世騎士祭りに来て、モーツァルトの足跡を見つけるとはね。

 

お城はこんな感じで、まあ、ちょっと田舎の宮殿って感じ。すごい豪華とか派手派手しいこともなく、身の丈サイズ。

 

330px-Rothmühle

Wikipediaより

 

Rothmuehle_Main02

中庭。公式サイトより。

 

結婚式とかセミナーにも使えるし、宿泊もできる。この規模のお城らしく、宿泊も全然高くない(二人部屋100ユーロ以下)。ウィーンからの距離も程よく、結婚式して朝まで踊って、泊まって帰るのにはぴったり。周辺に見所がないので、泊まるだけのために来るのは面白く無いかもだけど。(←城マニアなので、城がビジネスにどう生かされてるか、いちいち調べてしまうw)

 

今回は中庭が中世騎士祭りの会場をにもなってたし、色々とイベントに貸し出してるっぽい(お祭りも楽しかったので、また機会があれば記事にします)

 

 

●メスマー博士って誰?

 

メスマー博士ってだれ?って人のために、軽く解説ー。モーツァルトの時代の人で、動物磁気やら催眠術やらを使って治療をしていた、当時のハイテク医者。

 

FranzMesmer

フランツ・メスマー。顔調べたら、ウィーン版モーツァルト!のメスマーの人とそっくりでビックリしたw

 

まあ、今から考えたらインチキだったわけですが、いろんな病気を直したりしたので、一躍ウィーンでは時の人。

 

今では、メスメライズMesmerizeという英語の単語は「催眠術にかける」「幻惑してうっとりさせる」って意味で、単語にまで名前が残ってしまうような人なんです!

 

(次回は、史実上のモーツァルトとメスマーの親交について、その次からミュージカルの中に出てくるメスマーを検証してみます)

 

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2016-01-16 10:39 | カテゴリ:クリムトの歴史

映画「黄金のアデーレ」公開に伴い、この映画に対して感じた疑問や、調べたことなどをたくさんの記事にしましたので、関連記事をまとめて目次にしておきます。

 

Adele Bloch-Bauer I (Gustav Klimt)

Adele Bloch-Bauer I, 1907

 

 

まずは、この映画のことを聞いて、実際にオーストリアで当時リアルタイムで聴いていた話とずいぶん違うぞ?と疑問を持って書いた記事。

 

2015/10/29 クリムトの名画「アデーレ」返却騒動とその後①チャオ・アデーレ ←オススメ!

 

そして、当時の記憶を思い出すため、当時書いた日記を抜粋してみました。

 

2015/11/02 クリムトの名画「アデーレ」返却騒動の当時①返却決定のニュース

 

更に色々調べ、段々「ちょっと聞いていた話と違うぞ?」レベルの疑問が、「これもっと大きな裏があるよ!正当化?史実ゆがめてる?捏造?世論誘導?」に変わってきた辺りの記事。

 

2015/12/03 映画「黄金のアデーレ」Variety紙の納得レビュー ←オススメ

2015/12/07 映画「黄金のアデーレ」の嘘

 

しかし、ウィーンを舞台にした映画のロケ地探しが大好きなので、批判そっちのけでついつい色々探してしまう。

 

2015/12/01 映画「黄金のアデーレ」トレイラーにツッコミ

2015/12/05 映画「黄金のアデーレ」のロケ現場

 

どんどん調べてるうちに、役者を使って色々美化をした映画ではなく、当事者本人たちがインタビューを受けているドキュメンタリー映像を発見。1時間以上する映像を2個も見て、色々検証し、更に怒り沸騰。

 

2015/12/13 映画「黄金のアデーレ」前に作られたドキュメンタリー映像②オークション映像  ←オススメ!

 

当事者の言い分は色々とおかしなところや誘導があるので、自分で史実を当たってみることに。歴史や美術の勉強にもなりました。

 

2015/12/17 アデーレと夫Ferdinandの遺言全文と和訳

2015/12/19 「黄金のアデーレ」に関連するクリムト絵画を紹介←オススメ!

 

2015/12/21 「黄金のアデーレ」ブロッホバウアー家の財産の行方①平和な時代とアンシュルス

2015/12/27 「黄金のアデーレ」ブロッホバウアー家の財産の行方②戦後の絵画復興の流れ

 

この辺りで怒りは少し治まり、後は調査の合間に分かった、当事者の色々な背景などを紹介。調べた史実を淡々と紹介していますが、これを読むだけでも、映画でかなり誘導があったことはわかります。

 

2015/12/29 「黄金のアデーレ」登場人物の背景①ランディ弁護士、アデーレとアルトマンの関係

2016/01/03 「黄金のアデーレ」登場人物の背景②ジャーナリスト チェルニン

2016/01/05 「黄金のアデーレ」登場人物の背景③大富豪ローダー社長

 

 

 

アデーレ関連の記事のほとんどは、クリムトの歴史カテゴリにあります。ロケ地関連のみウィーンを舞台にした映画カテゴリに入れています。

 

===あとがき===

 

このアデーレ関連の記事は、ツイッターでもミクシィでも、当ブログのコメント欄でも大反響をいただきました。

 

この映画を通してオーストリアの事をもっと知りたいと思った方に、歴史のあり方と、それを一方的に描くことの危険さについて、少しでも知る手掛かりを提供できたようで、嬉しく思っています。

 

私自身も、今回のアデーレ関連記事を通して、マスメディアや映画の美談を鵜呑みにせず、ちょっとおかしいと思ったら調べてみること、自分の視点から作られた物語を再構築してみることの重要さを実感しました。

 

●映画を見ない理由

 

ここまで色々調べまくったわけですが、どうしても映画「黄金のアデーレ」を見る気にはなれません。もちろん映画を見た方が、批判内容に説得力が増すことはわかってはいるのですが、トレイラーを見ただけでムカつきすぎて、こんな映画にびた一文払う気が失せてしまったんです。

 

それに、映画を見る代わりに1時間のドキュメンタリー映像を2本見ましたので、映画を見た方よりも、当事者たちの考え方や方向性については熟知しているつもりです。そもそも映画にウソが混じっていて、事実を伝えているわけではないので、映画を見て間違った知識を得てしまうのも考え物です。

 

それに、結局カネカネカネだった、この美談(←皮肉ですw)の主人公たちに、更にお金を払って、ムカつくだけの映画を見るなんて、これほど自分の意思に反する行為もありません。映画代を寄付に回した方が100倍ましです。

 

今回の事件で考えてみたんですが、どうやら私は、史実を一方的にゆがめ、悪者を仕立て上げ、当事者が利益(カネや名誉)を得るためにマスメディアを使って美談を吹聴する、という行為に我慢がならないようです。

 

●疑惑まとめ

 

あまりに沢山の記事を書いてしまったので、一体この映画の何が問題なのか、焦点がわかりにくくなってきているかもしれませんので、簡単にまとめておきます。

 

・実話を謳っていながら、内容に事実と異なる部分があり、各誌レビューで指摘されている。

・家族愛を謳って返却された絵画が、取り戻して半年もたたずに売却された。(所有したまま美術館に長期貸与という選択肢もあったのでは?)

・5枚の絵画は一般に展示されると言われていたのに、バラバラに売却され、うち3枚は個人所有となり地下に潜った。

・個人所有となった絵画のうちの一枚は私のお気に入り。もう二度とみられないなんて悲しすぎる。

・カネ、権力、所有権ばかりが取りざたされ、人類共有の財産である芸術作品の価値に関する議論が軽視されている。

・現代のオーストリア人までもナチスの罪を背負う必要はないのに、不当に貶めている。そもそも過去のナチスの過ちを反省して、絵画を返却するという法律を定めたのは現代のオーストリア人。

・この騒ぎの背後にあるユダヤ人ネットワークの闇の深さ、動いた金額の大きさ。政治経済外交を動かす権力の大きさ。この絵画返却騒動と、それを美談化した映画は、このユダヤ人ネットワークの力を示すためのいいプロパガンダになったのでは?

 

それぞれの疑問に対する事実の裏付けは、上記関連記事に挙げてあります。

 

 

●調査の動機とちょっとだけ感謝

 

最初はオーストリアが不当に貶められていること、私が当時知っていた事実と違うことを世界中に吹聴していること、一方的な美談になっていることなどにブチ切れていた私でしたが、こうやって歴史や背景をひも解いていくと、段々この映画に対して腹を立てるのが馬鹿らしくなってきました。

 

それほど、この絵画の背景にある歴史、権力、カネ、名誉が壮大なもので、正直オーストリアのような小国の国民の、自国の芸術家の美術を愛する心なんて別に大したことではないんだという気にさせられます。

 

いくら私が記事に書いても、権力とカネの力でアデーレの話は美談になってしまうんでしょうし、それは最初から決まっていたことなんでしょう。けれど、やはりこうやって書いてしまわないと、私の中での怒りが行き場をなくしているところでした。

 

そして、このような歴史に触れる機会を作ってくれたこの映画に、少しは感謝することにします。そして、いつか私がタダでこの映画を見ることができる日が来れば、またブチ切れようと思います(笑)

 

 

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2016-01-05 00:23 | カテゴリ:クリムトの歴史

映画「黄金のアデーレ」に関連した人物について、歴史的事実をまとめていますが、今日は第三段。アデーレ事件の半年後、アデーレIを世界最高額でアルトマンから買い取った大富豪ローダー氏です。

 

映画「黄金のアデーレ」に関する記事はクリムトの歴史カテゴリへどうぞ。

 

<ロナルド・ローダー>

 

この人物、あのエスティ・ローダーの社長(創業者の息子で今は活動家)で、もう考えられないくらいの大金持ち。

 

Ronald S Lauder - Rally against anti-Semitism - Berlin 14 September 2014 - 1 - c MichaelThaidigsmann.jpg

 

エスティ・ローダーの創業者エスティ・ローダーとジョゼフ・ローダーの息子。弟のレオナルド・ローダーがエスティローダーのチェアマン。

 

・母親のエスティ・ローダーはハンガリー系ユダヤ人。エスティの母親が1898年にアメリカに移住したので、かなり前の世代のユダヤ系移民。

・弟と共にユダヤ人としての教育を受けて育つ。

 

・1986年にレーガン大統領が彼を在オーストリア大使に任命。1987年まで務める。この時期スパイ事件とかかわりのある人物を解雇。

・1989年ニューヨーク市長に立候補するが、ジュリアーニに敗退。

・1998年イスラエル首相ナタニエフの依頼で、シリアとの交渉を任される。

 

・2001年ニューヨークでノイエ・ガラリエをオープンし、ドイツとオーストリアに没収された絵画を展示する美術館とした。世界一のエゴンシーレのコレクションを所蔵し、のちにアデーレIとIIも所蔵する。

・アデーレのケース以外でも、ナチスに没収された絵画の回復に努める。

 

・世界的な影響力を持つ世界ユダヤ人会議などのユダヤ人系の会合のトップを務め、外交の一部を受け持つ。ナタニエフの仲間として知られ、イスラエルのメディアにも影響力を持つ。

 

・2012年にはオーストリア極右党FPOeが第三党に躍進したことに対して、この党がアンティセミストだ批判する。

・オーストリアのユダヤ人協会は、ロナルド・ローダーが役員選挙に干渉したとして、立ち入りを禁止した。

 

なんだか、略歴を簡単に上げていくだけでも、単なる絵画収集家って感じじゃなさそうですよね。。

 

ユダヤ人アイデンティティのために世界中を飛び回るっていう感じで、アデーレの絵画を世界最高額で買い取ったのも、自分の信条に合っていたからなのでしょう。

 

もう大金持ちで世界的な影響力のある人は、桁が違いすぎてよくわかりません。。

 

Ronald Lauder - Wikipedia, the free encyclopedia

 

また、アデーレを買い取った直後に、ドイツのDie Welt氏が行ったインタビュー。

Ronald Lauder: "Ich kaufe nicht für mich" - DIE WELT

 

この記事では、基本的に彼の、ナチスに没収された絵画を取り戻す情熱について書かれていますが、アデーレについても少し触れられています。

この記事、ドイツ、オーストリアのナチスによって没収された絵画の復古活動というテーマに関してとても興味深いです。本当は全部訳したいんですが、アデーレ関連部分のみ。

 

・「アデーレ」は自分のために手に入れたのではない。相続人(アルトマン)がニューヨークの私の美術館ノイエ・ガレリエを特別だと思い、彼女がこの場所でこの絵を展示公開したいと考えたからだ。

 

・いいことをして批判されるのは悲しいことだ。この絵は自分のために買ったのではない。ナチスに所有物を奪われた全ての人のために買ったんだ。

 

・私はマリア・アルトマンと最近何度か会い、ブロッホバウアー家の運命について語り合った。アデーレの夫Ferdinandはすべてを奪われ、チェコからスイスに逃れ、一文無しで亡くなった。マリア・アルトマンは90歳でアメリカで住んでいる。

 

・その間に彼女の絵画はオーストリアにあって、取り戻されなければならないのに、そうはされなかった。最近亡くなったジャーナリストのチェルニンがとうとうアデーレとFerdinandの遺言を発見し、マリア・アルトマンが最後の相続人として、これらの絵を手に入れるべきだと知らせた。

 

・(カンディンスキーの絵画が好きだが)、シーレやクリムトには、彼のような乱暴な力はないけれど、素晴らしい絵画だ。

 

・クリムトは「アデーレ」を私が購入するまで、アメリカではほとんど知られいなかった。近代美術館では初めてのクリムトとシーレは私からのものだ。

 

・私の情熱は長い歴史がある。

 

 

というわけで、ロナルド・ローダーの経歴と言い分をまとめてみました。

 

世界最高額で買い取られたアデーレIがどのような人物に、どのような理由で買い取られたか、それがいいか悪いかは別にして、人物たちの背景にある考え方を知ることができました。

 

これで、今まで書き溜めていた、アデーレ関連の記事はおしまいです。

 

長らくどうもありがとうございました。

 

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2016-01-03 00:23 | カテゴリ:クリムトの歴史

映画「黄金のアデーレ」ブチ切れ記事から、段々当時の歴史に興味が出てきて、どんどん映画からら離れて史実を調べまくっています。

 

映画「黄金のアデーレ」に関する記事はクリムトの歴史カテゴリへどうぞ。

 

今回は、アルトマンとランディ弁護士を助ける、唯一「いいもの」のオーストリア人、チェルニンについてわかったことを書きます。

 

映画を見たほとんどの人は知らないと思いますが、チェルニンはオーストリア人ならだれでも知っている、超有名ジャーナリストです。調べてみてその大物っぷりにびっくりです。

 

<ジャーナリスト フベルトゥス・チェルニン>

 

Hubertus Czernin

 

この事件のカギを握るジャーナリストHubertus Czerninという人物について見ていきましょう。

 

この人を掘り返すだけでも本が書けそうなすごい人物です。この事件で唯一アルトマン側のオーストリア人ですので、さぞ反ナチユダヤ人かと思われましたが、彼はほとんどナチスともユダヤ人とも関係のない出自です。

 

映画では、父親がナチス党員で、のちに反逆罪で投獄されたから、ナチスに恨みを持っていて協力する、という動機が描かれていますが、これは完全に史実に反します。実際チェルニンが父親とナチスの関係を知ったのは、本人の死の直前、2006年の事です。

 

チェルニンは12世紀から続くボヘミアの古い貴族の生まれ。ウィーン枢機卿シェーンボルン氏は彼のことを「いとこ」と言っていますので、親戚関係にあるようです。

 

そんな由緒正しい生まれですが、彼は歴史、美術史、ジャーナリズムを専攻し、オーストリアの有名報道誌Profilで記者をしていて、30代で編集長になります。

 

彼が関わった大きな事件を上げるだけでも、オーストリアの歴史が何度もひっくり返りそうになります。彼はクルト・ヴァルドハイムのナチ疑惑をすっぱ抜いた人物であり、また大司教の同性愛疑惑を暴いた本人でもあります。

 

・元国連事務総長で元オーストリア首相ヴァルトハイムのナチ疑惑

 

10年間国連事務総長を勤めたあと、オーストリア首相選挙に立候補していた当時のヴァルトハイムがナチスの突撃隊に所属していたことが判明。世界的な大疑惑となるが、オーストリア国民はこれを内政干渉としてヴァるとハイムは当選。しかし、各国から「ペルソナ・ノン・グラータ」に指定され、6年間の任期の間ほとんど外国を訪問できなかった。

 

後の調査により、ユーゴスラビアで残虐行為を働いたドイツ国防軍の通訳を務めていたことが判明するが、戦争犯罪には無関係であったとされる。また、ギリシャでユダヤ人強制収容が行われた土地の近くでも働いており、関与が疑われていた。

 

本人は一部の事実を隠したことは認めたが、突撃隊やユーゴスラビア、ギリシャでの戦争犯罪の直接関与は否定しており、証拠も出てきていない。

 

これ以上ヴァルトハイム事件について書くと話がそれてしまうけれど、オーストリアだけでなく世界にとっても大スキャンダルであったこの事件を、1986年に暴いたジャーナリストの一人がチェルニンだった。

 

・大司教Hans Hermann Groër同性愛事件

 

オーストリアではカトリックの聖職者と未成年の少年との性交が暴かれ、大きなスキャンダルとなりました。その中でも最高位の聖職者だったこのGroërは、バチカンによって後に教皇庁を追われました。

 

チェルニンは1992年にこのスキャンダルを取り上げ、マスコミだけでなく世界中に衝撃を与えました。(彼が主張する2000人以上の少年のソースがどこから来たのは不明のようですが)

 

・裸の首相と自身の編集長辞職事件

 

この後チェルニンは、自分が編集長であるProfil誌の表紙に、オーストリア首相Vranitzkyの頭に裸の体をコラージュしたデザインを使ったことで、時の政府から編集長を辞職させられ、野党側が表現の自由を掲げてデモを起こしました。(いわゆるRauswurf事件)

 

その後彼は自分で出版社を立ち上げ、複数の書籍を出版する中、1998年にアデーレ事件の発端を開く発見をします。

 

・アデーレ事件への関与

 

1997年、ベルヴェデーレからNYに貸与され、臨時展で展示されていた二枚のエゴン・シーレの絵画が、ナチスによって押収されたものとして所有権が争われました。その時オーストリア政府は、調査のためにベルヴェデーレの書庫をジャーナリストに開放し、隠すことがないことをアピールしました。

 

この機会にチェルニンはベルヴェデーレの書庫を調査し、5枚(実際は6枚)のクリムトの絵画の所有権を疑問視させる文書(アデーレとFerdinandの遺言)を発見し、アルトマンに通知します。

 

逆に言うと、このチェルニンの地道な調査と発見がなければ、アルトマン訴訟はそもそも始まらなかったのです。この事件の決め手を握る人物は、実はオーストリア人(それもユダヤ人ですらない)だったのです。

 

なぜチェルニンがこんなに全てのオーストリア人から「余計なことをしやがって。。」と思われることをやったのか、ちょっと考えてみました。

 

まず、彼がユダヤ人だから、というのが一番ありうる理由ですが、彼の出自は古いボヘミアの貴族です。2006年の死の直前になって、彼の父親がナチス党員があった(後に反逆罪でナチスに投獄された)ことがわかりますが、アデーレ事件の時点ではこのことを彼は知りません。

 

それではなぜオーストリア人がオーストリア人を裏切るようなことをしたのか?彼の過去のスクープを見たらわかる気がします。ヴァルトハイム事件にしても、大司教事件にしても、正直オーストリア人からしたらスキャンダルばかりです。

 

別に彼がオーストリアを嫌いだったわけではないとは思いますが、オーストリアに、そして世界にショックを与えるスクープこそ、彼の生きがいだったのではないでしょうか。古い貴族の名家に生まれ、どこでそうなってしまったのかわかりませんが、ジャーナリストとしては一流の人物だったと言えそうです。

 

また、彼が死亡する直前、アデーレ事件が解決した直後の2006年にStandard氏のインタビューに答えたものが残っています。

 

"Das alles ist eine riesige Frechheit" - Restitutionsfragen - derStandard.at › Kultur

 

「アデーレ事件でアルトマンが絵画を取り戻すきっかけになったのはあなたです。こういう結果になって誇りに思っていますか?勝利ですか?」という質問に対して「勝利者だとは思っていません。ヴァルトハイム事件も、ハイダー事件も、自分の報道が何かを変えることができたわけではなかった。仕事上で言えば、この事件がハッピーエンドで終わった初めての事件です。」と言っています。

 

ユダヤ人やナチスがどうとか関係なく、自らの報道で世界を変えたいと望んでいた、ジャーナリスト魂の塊のような人物だったようですね。

 

 

 

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