2018-02-21 16:19 | カテゴリ:モーツァルトの歴史

シュロス・ホーフ宮殿についての記事を書いたんですがが、いつ見てもため息もののこのSala terrena。庭に出る手前の部屋です。元々は奥の扉のところの様に、金の装飾だったのですが、修復の際に元々金だった部分は灰色に置き換えられています。

 

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この内装を担当したのが、Alberto Camesinaというイタリア人。この名前どこかで聞いたぞ?と思ったら、モーツァルトが住んでた現モーツァルトハウス博物館に、モーツァルの前に住んでた人だ! 

 

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モーツァルトハウス

 

Alberto Camesinaは、有名な内装家で、バロック時代の建築家Johann Bernhard Fischer von ErlachやJohann Lukas von Hildebrandtの内装の仕事をしていたので、作品はたくさん残っています。

 

この人はイタリア出身で、ザルツブルクでミラベル宮殿やレジデンツの仕事をした後ウィーンへやってきました。モーツァルトと似たパターンですね。

 

ウィーンでは、ホーフブルク、ベルヴェデーレ、ペーター教会、カールス教会の主祭壇、プルンクサール等の歴史に名を残す建物の内装を手掛けました。モーツァルトがコロレドの部下として滞在していたドイツ騎士団の館の教会の内装(ほぼゴシックに見えますが、バロック時代)も彼が手掛けたので、やはり同時代の芸術家同士、色々な接点がありますね。

 

そして、このCamesinaがモーツァルトハウスに住んでた時に、シュロス・ホーフの内装も仕上げていて、上記の美しい部屋を完成させています。

 

●モーツァルトハウスの謎の豪華な小部屋

 

また当時、自宅をショールームの様に使っていたので、部屋の一部を超豪華な大理石にリフォームしました。一般人の部屋なのに、ここだけやたら豪華なのは、そういうわけなのですね。

 

このCamesinaの後にここに入居したモーツァルトは、この部屋を寝室して使っていたと言われています。

 

800px-Secretary_Kerry_Toured_the_Mozarthaus_Museum_in_Vienna

Kurs:Welterbe, Kulturgüterschutz und Kommunikation (Sommeruniversität 2016)/Arbeiten/Musikerwohnungen in Wien: Mozarthaus Wien – Wikiversity

 

モーツァルトハウスの他の部屋は、下の写真みたいにシンプルなので、このショールーム部屋だけやたら豪華で、びっくりします。モーツァルトも一部屋の小部屋とは言え、貴族級の内装に囲まれ、貴族気分を味わったのかもしれませんね。

 

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Mozarthaus Vienna

 

しかし、ホーフブルクやシュロス・ホーフ、ベルヴェデーレ宮殿を飾った内装家の作品を見上げながら眠るなんて、最高の贅沢ですね、モーツァルト。。

 

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Mozarthaus Vienna

 


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2018-02-19 16:13 | カテゴリ:モーツァルトの歴史

ミュージカル「モーツァルト!」では、モーツァルト作曲のオペラやコンサート曲が多く挿入されていて、元の曲を知っていたらさらに楽しいですね。

 

有名どころでは、オペラ「魔笛」の引用も沢山ありますし、他にもBGM的にモーツァルト本人の作曲した曲が使われています。

 

モーツァルト!の新しい全曲楽譜には、原曲の曲名とその楽譜まで入っているので、ミュージカルファン兼モーツァルトファンの人は見逃せません!私も、挿入曲の出典知りたかったので助かります! しょっちゅう全曲楽譜のページをめくっては、新しい発見に声を上げています(笑)

 

モーツァルト!全曲楽譜

 

この楽譜に関する詳しい記事はこちら

舞台はウィーン! WMW:「モーツァルト!」全曲楽譜入荷しました!

 

●御前演奏の曲は?

 

試しに、一番最初のマリア・テレジア御前コンサートの出典を見てみたところ、KV24との記載が!何度も何度も聞いた曲なのに、やっとなんの曲かわかった!

 

Youtubeで曲も聞けます。→https://youtu.be/iN5N4oN2QbY 聞き流してたら、3分辺りからあの聞き慣れたフレーズが流れてきた時の、おー来た来た来た感スゴイよ!この感動体験は全曲楽譜おかげ!

 

この曲弾きたい!ってピアノの先生に見せたら、音符が多すぎて私にはまだ無理と言われました(笑)いつか上達してこれをスラスラ弾いて見せるぞ!

 

●史実との関係

 

しかし、KV24は1766年の作品なのでモーツァルト9歳。マリア・テレジア御前演奏は6歳なのでズレはある。

 

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6歳の時のモーツァルト(ウィーンでマリア・テレジアの御前演奏の直後にもらった水色のコートを着て)

 

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6-7歳の時のモーツァルト(パリ)

 

 

一応言っておくと、ミュージカル「モーツァルト!」と史実のズレはいくつかあって、私はそれを発見しても、別にあげつらうつもりはありません。クンツェ氏とリーヴァイ氏は絶対史実知ってて改変してるわけだから、改変箇所を見つけて、その理由を推測するのが楽しい!

 

あともう一つ出典がわかって狂喜乱舞したのが、「神よなぜ愛される」の前で、コロレドがが楽譜読みながら酔いしれるあの曲!「皇帝ティトーの慈悲」だった!!ティトー好きだから嬉しい!!(そのくせフレーズ覚えてないw)そして、ティトーとコロレドを微妙に重ねてるのに愛を感じるわ。。

 

しかし、年代を見ると、ティトーはKV621で1791年(モーツァルトが死んだ年の夏)。「神よなぜ愛される」は1784-5年と推測される(参照記事:舞台はウィーン! モーツァルトとメスマー博士⑧まとめ)から、また時間軸にズレがある。それでも、コロレドにティトーをぶつけてきたのは改変の妙! 変に史実を守るより、こんな風に引用でキャラのイメージを強調する方が好きだなー。

 

ちなみに、2幕最初のヨーゼフ2世御前オペラは、旧ブルク劇場の「後宮からの誘拐」初演で、これは史実通り。ただ、タイミング的には結婚の後で初演だったから、次のシーンでコンスタンツェとまだ付き合ってるのは時間軸がズレてる。盛り上がりを一幕最初に持ってきたかったから改変したのね。

 

●まとめ

 

というわけで、こうやって、どの場面でどのモーツァルトの曲が使われているかがわかると、更に作品の奥深さが楽しめます!

 

史実を改変している意味、物語のために時系列をどのくらいいじっているのかなど、史実のズレを発見すると、リーヴァイ氏がその改変にどのような意味を持たせたかったのかが、見えてくる気がします。

 

というわけで、この全曲楽譜、とってもとってもお勧めです!!原曲が知りたい人、全ての謎の答えがここにありますよー。

 

モーツァルト!全曲楽譜

 


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2018-02-17 16:52 | カテゴリ:モーツァルトの歴史

子供時代に完全に挫折したピアノですが、長男がレッスンを始めたのをきっかけに、私も超初心者から脱するべく、去年の秋ごろからピアノレッスンを始めてみました。

 

歌とフルートはやっていたので、ト音記号は読めるレベル。どちらもメロディだけの楽器なので、和音とかハモりとかへ音記号とかからきし。そんなレベルが、半年ほどで童謡や子供向けアニメの曲なら耳コピして左手を付けられるようになりました!!

 

理論の方も一緒に学んでいるのですが、ピアノの世界って奥深い!視野が一気に広がった感じです。

 

私のモーツァルト調査ブームの中、課題曲がモーツァルトのパパ→モーツァルト本人という、モチベーション爆上げの選曲。しかし、初心者にはハードル高すぎる!!

 

●モーツァルトの練習曲

 

2017年10月ごろのモーツァルトのメヌエットが課題曲で、短いのに四苦八苦して練習してたんですが、KV.6と知ってビックリ!!6だよ6!めっちゃ初期だよ!6歳の時の作品!今の長男の年だよ!1週間かけても私、半分も楽譜読めなかったよ!(笑)

 

 

モーツァルトがウィーンのどの建物でどの曲を作曲したかを調べてる途中なんだけど、このKV6のメヌエット1(私の練習曲)は、1763年ブリュッセルでレオポルトの手により記録されている。モーツァルト7歳。練習始めた時点では、今の私には、引きこなすのにまだ3週間はかかりそうと思ったら、結局先生から合格もらえるのに2ヶ月かかりました(苦笑)

 

しかし、7歳で既に、こんなに一発で聴いてモーツァルトとわかる曲を作ってたんだ。。特徴って面白いなー。

 

●何の楽器を使った?

 

しかし、結構両手ともオクターブ移動するし、大人の私の指でもきっちり鍵盤動かすのが難しい幅の広さ。6,7歳の子供の指でちゃんと弾けるのかな?と思ったら、ツイッターで「モーツァルトの初期はハープシコード(=チェンバロ)だったかも」と教えていただいた。

 

モーツァルトは実際なんの楽器を使ってたのかな?って調べたら、また私好みの面白い事実が。。モーツァルトの時代は、ハープシコードからピアノへの過渡期で、どちらもKlavierと呼ばれていたので、どの曲がどれとは言いがたいものもある。

 

曲名に「クラヴィーアのための」って書いてあるのは、そういうことだったのかー。Klavierの直訳はピアノだけど、当時の感覚でKlavierって言われても、ハープシコードかピアノなのか判別できないから、クラヴィーア(=ハープシコードORピアノ)という表記しかできないんだね。

 

一応、子供時代から10代半ばまではハープシコードだったとされてるので、初期のKV6なんかはハープシコードだろうな。その後はピアノだったかも。それにピアノだとしても、今のピアノとかなり違ったらしい。

 

●ハープシコードモードで弾いてみる

 

早速モーツァルトの練習曲を、電子ピアノのハープシコードで弾いてみたら、なんか感動!何このタイムトリップ感!ウィーンでモーツァルトをハープシコードで弾いてるよ私!(笑)

 

ピアノは鍵盤を叩く早さで強弱がつくけど、ハープシコードは音の強弱は一定。ピアノは打弦楽器(ハンマーで弦を叩く)けど、ハープシコードは弦を弾くので弦楽器。音の強弱はつけられない。

 

だから、子供の指で弾いても、強弱的に大人に劣ることはなかったと思われる。けど、鍵盤を叩く強さで曲の盛り上がりを表現できないので、代わりに盛り上げたいところでは、音符を多くして(四分音符が多い曲なのに、盛り上がりだけ八分音符多め)、豪華さを出したんだとか。

 

当時の楽器で弾くっていうのも、音楽の魅力の一つだなぁ。

 

●当時のピアノはどこにある?

 

ベートーヴェンのピアノはパスクヴァラティハウスでこないだ見た。モーツァルトのピアノはザルツブルクの生家に行かないとないのかな(晩年のピアノがある)。とりあえずウィーンの楽器博物館か、産業技術博物館の上の楽器ルームに行けば、昔のピアノに触れられそうだな。

 

以前こんな記事を書いたのを思い出した。

舞台はウィーン! モーツァルトが弾いた当時のチェンバロの音色が聞けるCD①お問い合わせ編

舞台はウィーン! モーツァルトが弾いた当時のチェンバロの音色が聞けるCD②謎解き編

 

この記事の特に謎解き編、久々に読んだらやばいね。。私の歴史ほじくり趣味全開w 特にロンドンからドイツ、更にポーランドからチェコに渡って隠されたチェンバロにロマンを感じるわ。。

 

あとチェンバロといえば、ミュージカルのシカネーダーで、ことある事にチェンバロちゃららんからのレチタティーヴォが入るんだが、シカネーダーもまた、チェンバロからピアノへの過渡期の人物なんだな。とは言っても、モーツァルト晩年の魔笛前後は、既にピアノ優勢なんだろうけどね。

 

●おまけ、我が家の電子ピアノ

 

息子が2017年の春先にピアノレッスンを始めたので、夏ごろにヤマハのクラヴィノーヴァを、清水の舞台から飛び降りるつもりで買いました。モデルチェンジで2300ユーロが1750ユーロになってた♪

 

このピアノの元を取るために、私もピアノレッスン始めたようなものですwイヤホンついてるから子供たち寝たあとで練習できるし、音めっちゃキレイで大満足。我が家の生活スタイルからすると、本物のピアノ買ってもここまで使うことはなかったな。

 

我が家の電子ピアノ、今年買ったものの中ではダントツ一番高くてびっくりしたんだが、使う頻度でいうとかなり元取ってる気がしてきた。長男は毎日15-20分、私も週5回20-30分は練習する。夫も2日に一回はストレス発散のために30分弾いてて、ピアノが取り合いになることも。

 

ピアノが楽しいという気持ちがやっとわかるようになってきたし、モーツァルトの調査のモチベーションも上がるので、なんとか時間を見つけて、練習がんばろうと思います。 

 


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2018-02-15 16:20 | カテゴリ:モーツァルトの歴史

本日のモーツァルト謎解き宝探し。ほぼすべてのウィーンにあるモーツァルト関連の史跡パネルを調査し尽くしたわけですが(ブログには順次書いていきます)、気になるパネルが一つあった。10年前と20年前の本にしか書いてなくて、ネットには全く上がってないパネル。この2冊の本には載ってて、今は撤去されたものもあるので、半信半疑。

 

モーツァルトが「朝のコンサート」を行ってた場所で、ベートーヴェンもシューベルトも弾いてる。2冊とも写真が載ってなく、場所も謎かけみたいに分かりにくい。8割方現存しないと思われた。広大なアウガルテン公園のどこかにある、くらいのザックリ感。ネットで探しても、違うパネルしか出てこない。

 

なぞかけみたいな本によると、「当時1階建てだった建物の左側」らしい。少年合唱団の寄宿舎か陶器工房のどちらかだが、少年合唱団の方は普段は入れない。陶器工房はいくら手持ちの写真を拡大しても、記念パネルは見えない。行き当たりばったりで現地で探すしかない。

 

●現地調査

 

ちょうど歯医者の近くだったので、アウガルテンの調査に行ってきた。庭園の裏口から入り、木立を抜けて陶器工房の裏手に出る。建物の右側(正面から見た左)に回り込むと、カフェの裏口があり、その横に史跡パネルあった!!写真でも見たことなかったから感動!まさに宝物見つけた気分!

 

これがその、アウガルテンにあるモーツァルトとベートーヴェンとシューベルトの史跡パネル!ネットに上がるのは初かもしれない。それぞれ「朝のコンサート」のプログラムで、この建物で演奏したことが書かれている。モーツァルトのは、会場のこけら落とし的なコンサートだった。

 

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「この建物で、1782年からアウガルテンコンサートが開かれ、以下の人物たちの出演により記念すべきものとなった。

 

モーツァルト 1782年5月26日 

交響曲 KV338, 二大のピアノのための協奏曲 KV365

ベートーヴェン 1803年5月24日

クロイツァーソナタ OP47(初演)

シューベルト 1824年5月1日

夜うぐいす(Die Nachtigall)四重唱 D724

 

モーツァルト協会、ベートーヴェン友の会、シューベルト団体 ウィーン1973」

 

(設置団体名は仮訳です)

 

 

この史跡パネルの見つけ方は、アウガルテン陶器工房正面から見て左のカフェ側の壁に、小さな長方形の穴(?)があるので、そこを潜って右。高射砲塔に気を取られやすいので、塔に背を向ける感じ。

 

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正門から見たアウガルテン陶器工房。いつも水平に撮ったつもりでも傾いてるw この建物で、モーツァルトとベートーヴェンとシューベルトが演奏した。主催者のIgnaz Jahn氏には、その後Cafe Fuarenhuberのコンサートでもお世話になってる。 

 

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しかし、かなりトリッキーな所にあるとはいえ、なんでここの史跡パネルだけ、どのデータベースにも載ってないんだろう。アパートの共有スペースで、住民じゃないと見れないとか、もっと見つけにくいパネルもたくさんあるのに。二冊の本のおかげで見つけられたよ。。著者の方ありがとう!

 

ちなみにこの2冊の本、1996年と2006年に出版されてるんだけど、どちらも廃版で、中古で入手した。今の私のバイブルw これで、ウィーン市内のモーツァルトの史跡パネルの調査、撮影は完了!しかしまだ調べたいことは結構たくさんあるw

 


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2018-02-07 16:33 | カテゴリ:モーツァルトの歴史

ウィーンの町を散策していると、急に見慣れた名前が史跡パネルに書かれていて、目に飛び込んでくることがあります。

 

歴史的な建物に付けられた史跡パネルは、その建物に歴史上の人物が住んでいたり、訪れたりしたことがあることを示しています。

 

全てのゆかりの建物に史跡パネルが付くわけではなく、パネルがなくても重要な建物の事もあれば、パネル自体が間違っていることもあり、注意が必要ですが、街歩きの楽しみの一つとして、宝探し気分で史跡パネルとの出会いを楽しむのも、ウィーンの醍醐味の一つです。

 

ある日の観劇の帰り、ふと見上げたところに、モーツァルトの史跡パネルを見つけたのが、私の史跡パネル宝探しの始まりでした。

 

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それがこちらの史跡パネルです。

 

===

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト 1756-1791

1762年の10月第二週に、この建物において、この町で聴衆の前で初めて演奏を行った。彼の故郷となり、また運命となった、この町で。

===

 

と書いてあります。

 

「この建物でモーツァルトがウィーン初演奏?6歳でマリア・テレジアの前で御前演奏してたはずなの、それより前なの?」と思って、そこから調査が始まりました。

 

モーツァルトは、6歳、12歳、16歳と三度ウィーンを演奏旅行で訪れた後、1781年から10年間ウィーンに住みました。

 

1762年の訪問は6歳の時で、10月6日にザルツブルクからウィーンに到着しています。10月第二週に演奏とありますが、おそらく9日の事だったと思われます。シェーンブルンでの御前演奏は13日です。ウィーンに到着して三日後にはコンサートを始めたということになりますね。このコラールト宮でも、シェーンブルンと同じように、ナンネールとモーツァルトが共演したそうです。

 

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コラールト宮外観。建物の右下のアーチは通り抜けでき、時計博物館方面につながっています。フィアカー(馬車)の定番ルートでもあります。

 

 

モーツァルトを招待したのは、この館の名前にもなっているコッラールト侯爵で、コンサートにも在席していたとされています。

 

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こちらが、コラールト宮の歴史に関する史跡パネル。

 

「1671年に建てられ、1715年と1725年にファサードを新しくした」と書かれています。モーツァルトが来る200年も前からここにあった建物なのですね。

 

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ウィーンにあるモーツァルト関連の建物で、現存しているものはかなり少ないので、貴重な「当時からある建物」ということになります。

 

通りかかることがありましたら、ぜひ史跡パネルを見て建物を見上げ、250年前の6歳のモーツァルトの演奏の様子を思い浮かべてみてくださいね。


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2017-10-01 16:36 | カテゴリ:歴史

よく行く家の壁に、こんなにかつてのウィーンの姿の絵が飾ってあります。

 

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この絵を見て、色んな疑問が浮かんできました。この景色、今のウィーンで見たことないよ!これはいったいどこ?今日はこの絵の謎に迫ってみます。

 

●謎解きの始まり

 

絵の下には、「ウィーン、ミヒャエル広場のブルク劇場」のキャプションがあります。

 

ホーフブルクの一部に旧ブルク劇場があって、モーツァルトのオペラなども上演されたことはよく話には聞くのですが、ホーフブルクのどこにあったのか、気になってきました。(※後宮からの誘拐、フィガロの結婚、コシ・ファン・トゥッテの三作品はこの旧ブルク劇場で初演されています)

 

元々王宮の一部だったブルク劇場は、皇帝フランツヨーゼフの時代の1888年に今の場所に移転しました。この絵は移転前の旧ブルク劇場です。

 

ということは、エリザベートが亡くなる10年前まで、この場所は今のホーフブルクの様に弧を描いていたわけではなく、上の絵のように旧ブルク劇場が建っていたことになり、想像する風景がまた変わってきますね。

 

ちなみに、移転後のブルク劇場は、ウィーン市庁舎の真っ正面、リンク大通り沿いに立っていて、ドイツ語の由緒あるストレートプレイの劇場です。

 

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移転後の現在のブルク劇場

 

●現地調査!

 

それでは、この絵の現場が、今はどうなっているのか見てみましょう。

こちらの写真が、現在の王宮(ホーフブルク)です。

 

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写真と見比べてみるとずいぶん違いますね。けど、クーポラが三つあるので、どこが違うのかちょっとわかりにくいかもしれません。もう少し近寄ってみてみると。。

 

向かって左翼の真ん中(下段左から三つ目と四つ目の窓の間)に、目立たない史跡パネルがあります。

 

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この史跡パネルのアップがこちら。

 

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「ここには1767年ヨーゼフ2世の時代に建てられた旧ブルク劇場が、1888年まであった」との説明書きがあります。ここで古い絵を見返してみると、2番目の窓で建物は途切れ、劇場が手前に張り出しているのがわかりますね。

 

●古い絵を再現してみる

 

せっかく現地調査に来たので、この古い絵と同じ景色を写真で再現しようと頑張ってみました。コールマルクトのデーメルの前辺りから撮るとこんな感じになります。これ以上は相当の広角じゃないと無理w 。

 

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左手前にミヒャエル教会の塔、ホーフブルクの左翼のクーポラ。下段左二つ目の窓から右は、劇場移転後付け足したのが、こうして並べてみるとわかりやすいです。

 

元々このホーフブルクのミヒャエル門は、左のクーポラと下段の窓二つ分、つまりこの写真の左2割くらいしかなかったんですね。

 

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黄色い線の左側だけが元々のホーフブルクだった。

 

●旧ブルク劇場の姿

 

当時のホーフブルクと旧ブルク劇場のわかりやすい絵や写真がもう少し出てきたので、挙げておきます。

 

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Altes Burgtheater Gedenktafel

 

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Altes Burgtheater – Wien Geschichte Wiki

 

この、右の四角い建物が旧ブルク劇場で、数々のモーツァルトのオペラが初演されたかと思うと、なんだかもうなくなった劇場ではありますが、愛着がわいてくる気がします。

 

それにしても、今の堂々たる姿を誇るホーフブルクのミヒャエラ門ですが、シシィの時代はこんな感じで切れていたんですね。。この左側の建物は、スペイン乗馬学校として使われていたということで、用途は今と同じでした。

 

ちなみに、この旧ブルク劇場が取り壊される前に、内装を記録に残すために内部の絵を注文されて描いたのが、当時まだ若かったクリムト。

 

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この絵はもっと鮮やかだった記憶があるのですが、こんなセピア色のしか見つかりませんでした。。確かウィーン博物館に巨大な実物があったはず。描かれている人物は当時のセレブで、似顔絵を描くためにクリムトは大量のセレブのスケッチをしたというエピソードがあります。

 

また、クリムトは、新しいほうのブルク劇場の天井画も描いていますね。若かりし頃だったので、金粉をたくさん使ったような後年のデザインではありませんが、一度ガイドツアーなどで中を覗いてみるのも面白いですよ。

 

●現在の姿

 

こんな昔のホーフブルクの姿を見てから、もう一度今の姿を見てみましょう。

 

真ん中のクーポラを含む全体の8割は、旧ブルク劇場移転後、フランツヨーゼフの時代(シシィの晩年10年間)に増築された事がわかります。一から作るより、中途半端な建物に増築する方がずっと難しそうな気がしますが。。この残りの部分が完成して、いま私たちが見ることのできるミヒャエル広場の姿になったわけですね。

 

 

というわけで、今回はミヒャエル広場と、ここに昔あった旧ブルク劇場の歴史に迫ってみました。

 

こういう、古い絵や地図を元にした現地調査が大好きなので、またネタを見つけてはやってみようと思います。

 

 



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2017-02-01 16:22 | カテゴリ:歴史

前回の記事で、オイゲン公からモーツァルトまでの5人のハプスブルク家当主を並べてご紹介しましたが、この人たち、一体役職は何だったんでしょう?ハプスブルク皇帝?オーストリア皇帝?いえいえ違います。

 

●オーストリアの君主は皇帝?大公?

 

横軸で見ると、当時は「オーストリア皇帝」と言うものはなかったんです。オーストリアという国の君主は「オーストリア大公Erzherzog」で、ハプスブルク家の当主が務めていた。大公が治めるので、帝国ではなく「公国」。

 

このハプスブルク家の当主は「ハンガリー王」「ボヘミア王」など他の国の君主も兼任していました。そんな兼任する役職の中の一つに「神聖ローマ帝国皇帝」があり、「皇帝」を名乗れるのはこの役職のおかげでした。

 

じゃなんで、ローマと地理的に関係なさげなハプスブルク家が「神聖ローマ帝国」の皇帝になれるの?ってところから説明します。

 

●神聖ローマ帝国=ドイツ?

 

神聖ローマ帝国の始まりは、962年に苦労人wオットー1世がローマ教皇から「あなたローマ帝国の皇帝ね」と任命してもらったことから始まります。このローマ帝国の皇帝は、ローマ教皇より下の立場だったのが、段々強くなっていき、おまけに「神聖」の名を付けたりして独自の格を持ち始めます。

 

当時ドイツは、今のような統一された国ではなく、日本史の藩のような感じで、それぞれ王が統治していました。おまけに周りと戦争しまくるので、領土もあやふや。ローマに住む教皇は、その王たちを取りまとめる、戦国時代の天皇のようなものでしょうか。そんな王から選ばれ、教皇に任命される「神聖ローマ帝国の皇帝」は、将軍に近いかもしれません。

 

ドイツの地域ごとの王(選帝侯)が話し合って決めた人を教皇に任命してもらっていため、神聖ローマ帝国皇帝の地位は元来非世襲。色んな王が持ち回りで皇帝の冠も被るので、「神聖ローマ帝国」という土地の君主と言う意味合いは少なく、ドイツ語圏の「王様の王様」という名誉職と思えばわかりやすいかも。

 

選帝侯たちは、なるべく無能な人物が皇帝に選ばれるよう画策した結果、皇帝が見つからなかったり、逆に無能で高齢だと思って選んだ人が有能すぎて失敗したこともあった。例えば、当時弱小だったハプスブルク家のルドルフ1世を無能と判断して選んだら、名門に成長し領土を広げまくったり。

 

ハプスブルク家はこのルドルフ1世の後で二代世襲で「皇帝」を出すが、その後200年程選んでもらえなかった。それが、15世紀中頃からは独壇場。オーストリア大公であるハプスブルク家が「皇帝」の冠を連続して被り、「ハプスブルク家当主=オーストリア大公=神聖ローマ皇帝」の時代が来る。

 

●王位と皇位兼任の問題①一人二役(以上!)

 

しかし、一人の人物が複数の王位や皇位を兼任していると、やっぱり無理があるようで、色々とややこしいことがある。まあ、それも政治の世界だから無理やり何とかしちゃうわけなんだけど。

 

まずは、同一人物が役職によって呼称が変わるということ。例えば、ハプスブルク家のカール2世は、オーストリア大公としては二人目のカールなので2世だが、神聖ローマ皇帝としては6人目のカールなのでカール6世となる。つまり、同じ人物がオーストリア大公カール2世=神聖ローマ皇帝カール6世

 

●王位と皇位兼任の問題②皇帝になれないマリア・テレジア

 

更に、オーストリアは女性の大公を認めているが、神聖ローマ皇帝は認めていない。15世紀以降、ハプスブルク家大公=神聖ローマ皇帝なのだが、唯一の例外がマリア・テレジア

 

彼女はオーストリア大公やハンガリー女王、ボヘミア女王としてものすごい政治的手腕を振るったけど、神聖ローマ皇帝(女帝)の役職についたことはないので、「女帝マリア・テレジア」と言うのは正式には誤り。

 

マリア・テレジアが神聖ローマ皇帝になれなかった40年間は、3人の男性がその地位に就いた。ハプスブルク家の世襲を守るため、マリア・テレジアの父カール6世が、次の皇帝はマリア・テレジアの夫フランツ・シュテファンだと指名して亡くなったが、、

 

バイエルンのヴィッテルスバッハ家のカール7世という非ハプスブルクの人が、二代前のヨーゼフ1世の娘婿だとか言う理由で割って入った。しかし彼の在位はたった3年。やめときゃいいのに、マリア・テレジアが即位したてのオーストリアに攻め入り、逆に返り討ちに合って、領土も地位も奪われてしまう。

 

そして、二人目の穴埋め皇帝は、予定通りマリア・テレジアの夫のフランツ・シュテファン改めフランツ一世。妻はオーストリア大公、ハンガリー女王、ボヘミア女王でバリバリに領土を支配してるのに対し、夫は名誉職の神聖ローマ皇帝。

 

更にマリア・テレジアも、夫が皇帝になったからKaiserin(皇后)と言うことになり、Königin(女王)とKaiserin(皇后)の頭文字を取ったK.u.K.の称号を使うこととなる。

 

このラブラブ女王皇帝カップルは、マリー・アントワネットを含む11女5男をもうけた。けど、フランツ・シュテファンは妻の尻の敷かれてたというわけではなく、実は他にもいっぱい婚外子がいて、オーストリア人の半分は彼の子孫とかww(シュロスホフのガイドさん曰くw)

 

けど、穴埋め皇帝フランツ1世は、妻より15年も早く亡くなります。そのため、ハプスブルク帝国次期当主のヨーゼフ2世(倹約大好きw)が、父の跡を継いで神聖ローマ皇帝に。マリア・テレジアが亡くなり彼がオーストリアの大公になった時点では、すでに皇帝として15年のキャリアがあったのね

 

まあこの後は、オーストリア大公=神聖ローマ皇帝はマリア・テレジアの息子、息子、孫と三人続いて、神聖ローマ帝国自体がおしまいになります。次は、どうやって神聖ローマ帝国が終わり、オーストリア皇帝が誕生したかのお話です。

 

●皇帝を辞めて皇帝になる男

 

同一人物なのに、大公と皇帝で名前が違うので有名なのが、最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世。18世紀末から19世紀初めにかけて、ナポレオンの混乱の中で神聖ローマ帝国が崩壊した時(1806年)の皇帝としても有名。この人は策士だー!

 

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このフランツ2世は、神聖ローマ帝国が崩壊すると同時に皇帝としての称号を失い、ただの「オーストリア大公でハンガリーなどの王」に戻ったわけだが、転んでもただでは起きない。

 

自分はやっぱり皇帝のままがいい!それなら、ハプスブルク帝国としては初代の皇帝フランツ1世を自称しよう!と思い立ち、ここで初めて「オーストリア皇帝」が誕生する。同じ人物が、神聖ローマ帝国最後の皇帝フランツ2世→オーストリア帝国最初の皇帝フランツ1世にスライドしたわけですね。

 

●オーストリア皇帝、少な!

 

この後歴史上の「オーストリア皇帝」はたった四人

 

上述のフランツ1世(メッテルニヒとか起用した人)

 

フェルディナント1世(病弱)

 

フランツ・ヨーゼフ1世(突然の知ってる人wフェルディナント1世の弟フランツ・カール大公の長男で、シシィの夫)

 

330px-Emperor_Francis_Joseph_thumb

 

カール1世(皇太子ルドルフ自殺→皇太子フランツフェルディナンド、サラエボ事件で射殺の末に皇帝の位が回ってきた人で、フランツヨーゼフの弟の孫)

 

の4人でおしまい。

 

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カール1世

 

オーストリアってずっと帝国だと思ってたけど、実際にオーストリアが帝国で、君主が皇帝だったのって、たった4人だけだったのね!

 

まあ4人とは言っても、期間で言うと114年間。そのうち半分以上がフランツ・ヨーゼフの治世。フランツ・ヨーゼフ偉大だ。。

 

●まとめ

 

というわけで、オイゲン公の時代はオーストリアの君主はなんで皇帝じゃないの?ってところから、神聖ローマ帝国の歴史やら、ハプスブルク家やら、近代史に足ツッコむまで10世紀分くらい軽く進んでしまいましたw

 

点が線でつながったし、ハプスブルク家のしたたかさや柔軟さが実感できたし、調べてて楽しかった!横軸としてスペイン継承戦争やナポレオン等周りのごたごたを入れたら線が地図になって広がっていくけど今回はパスー。とりあえず流れや雰囲気が掴めて、登場人物のキャラがつかめたらまあいいかなー。

 

 

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2017-01-29 16:22 | カテゴリ:歴史

ウィーンの新名所、オイゲン公の冬の宮殿ヴィンターパレを取材して記事を書いたので、オイゲン公の時代について色々と調べていたら、どんどん面白いことがわかってきました。

 

オイゲン公。ハプスブルク家に仕えた軍人。連戦連勝で国家的英雄。

 

オイゲン公周辺の17-18世紀のオーストリアは、ミュージカルの舞台にもなってないし結構知識があやふやな気がする。バロックですごい面白い時代だけど、色々絡み合って複雑なので、わかりやすくまとめておきます。オーストリアの皇帝って何者?みたいな話もでてきます。

 

●オイゲン公からモーツァルトまでのハプスブルク家当主5人

 

まず、オイゲン公が遣えたハプスブルク家当主を並べると、レオポルト1世→ヨーゼフ1世→カール2世。ヨーゼフ1世とカール2世はそっくり兄弟で、白いふさふさロングカツラw弟のカール2世の娘がマリア・テレジア

 

330px-Benjamin_von_Block_001
レオポルト1世
 
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ヨーゼフ1世
 
KarlIVBelvedere
カール2世(=カール6世)

 

オイゲン公(絵)の死後マリア・テレジアが即位。彼女の結婚相手として、オイゲン公はプロイセン王のフリードリヒを強く推薦してたのに、両想いのフランツ・シュテファンと結婚したので、オイゲン公は拗ねていた。マリア・テレジアの次は倹約好きのヨーゼフ2世で、この二人がモーツァルトの時代ね。

 

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マリア・テレジア

 

330px-Maria_Theresia_Familie

マリア・テレジアファミリー。夫のフランツ・シュテファンは椅子に座ってる人。

 

330px-Joseph_Hickel_(attr)_Joseph_II_als_Mitregent_seiner_Mutter

倹約大好きヨーゼフ2世

 

それでは、次回の記事では、上記の5人が、本当に皇帝だったのか、マリア・テレジアは本当に「女帝」だったのかを、検証していきます。

 


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2016-12-13 16:45 | カテゴリ:エリザベート(シシィ)の歴史

表題のニュースが新聞の日曜版の雑誌に載ったのは、10月半ばのこと。見つけて大興奮でツイートしたんですが、その後ブログ記事にしていなかったので、遅ればせながら記録のために記事にしておきますねー。

 

===10月16日のツイートまとめ===

 

本日のシシィスクープ。未発見のシシィの写真がイタリアで見つかり、ファンの手でウィーンのシシィ博物館に送られてきた。写真に撮られることを嫌ったシシィの数少ない写真。水兵さんと一緒に写ってるという事実も衝撃的。右端で横向いてるのがシシィ(拡大有り)

 

 

シシィの左でしゃがんでる女性が、姉のヘレネであることから、彼女がシシィをコルフ島に訪れた1861年と特定された。シシィ博物館の手にかかれば、撮影された場所と年を特定するのはカンタン!。この時期のシシィに関する記録が少ないことからも貴重な資料。

 

家族写真すら撮られることを嫌ったシシィが、水兵と写真に写っているという事実がスキャンダラスとも言われている。色々な意味でシシィの知られざる側面を切り取った貴重な資料だ。

 

===

 

これをまとめてみて気がついたけど、シシィってギリシャで肩にイカリのタトゥー入れたんだよね。これって水兵さんと何か関係あるのかな?

 

ちなみにシシィが1861年にコルフに行ったのは、シシィ24歳、ルドルフが3歳の時。咳の発作が止まらず、転地療法でその一年前にマデイラで6ヶ月過ごしたが、ウィーンに戻ると同時にまた発症。すぐにまたコルフへ出発し、4ヶ月過ごした。

 

ヘレネは故郷バイエルンで1859年に娘を出産して、子供が2歳のときにコルフまで妹を訪ねて行き、帰りにウィーンに立ち寄って皇帝に病状を報告している。その1年後に息子を出産。

 

なんだか二人共、子供が小さいのに長距離の旅行ってすごいタフだな。。一応転地療法なわけだけど、当時の旅行なんだから、移動だけでもヘトヘトになりそう。。

 

この1861年は、ウィーンを離れていたこともあり、シシィの記録が少なく、空白の年と言われている。しかし、このコルフ滞在のあとでウィーンに戻ったシシィは、急に自信に溢れた女性に生まれ変わっていた。可愛らしく幼稚なイメージから、才色兼備な女性へとイメチェンしたのも、このコルフ滞在を契機にしている。

 

例えば、当時の宮廷ではあり得なかったことだが、夫婦の寝室を分けるよう要求したのもこの時期。そして1865年にはあの有名な「最後通牒」を皇帝に突きつけ、その次の年からはハンガリーを好み、政治にも感心を示すようになった。

 

というわけで、このコルフ滞在は、シシィの人生にとって何らかの大きな転機になった時期かもしれない。そんな重要な資料になりうる写真が、今回発見されたということになる。

 


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2016-03-11 16:28 | カテゴリ:モーツァルトの歴史

モーツァルトと磁気療法で有名なメスマー博士の関係について、ちょっとだけ書く予定が、調べて行ったらどんどんハマってしまい、気がついたら8記事目。。

 

というわけで、そろそろまとめに入ります。

 

●史実まとめ

 

まず、史実としてメスマーは、金持ちの未亡人と結婚した有名な医師として、10代のモーツァルトのパトロンだったことは記録に残っています。

 

12歳と16歳のモーツァルトの世話をして、オペラの作曲や自宅での演奏会を依頼しています。ヨーロッパ旅行に飛び回っていたモーツァルト一家にとって、ウィーンでの頼りになるクライアントといったところでしょうか。

 

また、モーツァルトは後に、オペラ「コシ・ファン・トゥッテ」の中で、メスマーの磁気療法に言及しています。

 

●ミュージカルの登場シーンまとめ

 

上記の記録に残っているメスマーとモーツァルトの交流の内、ミュージカルに登場するのは12歳の時のメスマー邸での演奏会のみです。ただし、この場面は初演版のみで、ウィーン新演出版ではモーツァルト6歳でのシェーンブルン宮殿での演奏会に差し替えられています。

 

また、ミュージカルのプロローグで登場する、コンスタンツェを連れてのモーツァルトの墓探しは、史実ではない可能性が高いです。また、2幕プロローグとフィナーレで登場する墓場のシーンは、新演出版ではカットされています。

 

さらに、「神よなぜ許される」の画面でコロレドに脳みそを送りつけてくるのもメスマーですが、こちらも歴史的には無理っぽいです。

 

というわけで、表にまとめてみました。

 

モーツァルトの年齢 ミュージカルのシーン(ウィーン初演・ハンブルク、日本) ミュージカルのシーン(ウィーン新演出) 出来事 場所 その場にいた人物 史実?
1809 死後18年 プロローグ プロローグ モーツァルトの頭蓋骨探し サンクト・マルクス墓地 コンスタンツェ・墓掘り 史実ではない?(メスマーウィーン追放後)
1762 6   1幕最初 演奏会・コートを下賜される シェーンブルン宮殿 鏡の間ORローザの間 マリア・テレジア・カール1世、レオポルト、ナンネール 史実(レオポルトの手紙)ただしコートは赤ではない。
1768 12 1幕最初   演奏会 ウィーンLandstrasseのメスマーの自宅の庭/室内 メスマー、レオポルト、サリエリほか 史実(レオポルトの手紙)
1772/8 16     演奏会 ウィーンLandstrasseのメスマーの自宅の庭 メスマー、レオポルト 史実(レオポルトの手紙)
1772/9 16     訪問 Rothmuehle城 メスマー、レオポルト 史実(レオポルトの手紙)
(1777)       メスマー、ウィーン追放。パリへ。     史実
  死後18年 2幕プロローグ   モーツァルトの頭蓋骨探し・ サンクト・マルクス墓地 コンスタンツェ 史実ではない?(メスマーウィーン追放後)
1781/10 25 「ここはウィーン」   モーツァルトのピアノコンサート。その後客が「ここはウィーン」を歌う。 カプツィーナ教会向かいの市営カジノMehlgrube メスマー・サリエリ、男爵夫人、シカネーダー他 史実ではない?(メスマーウィーン追放後)
1782/8 26   「ここはウィーン」 オペラ「後宮からの誘拐」初演。その後「ここはウィーン: ミヒャエル広場の旧ブルク劇場舞台&劇場前(背景は国立オペラ座) ヨーゼフII世 史実
(1784)       メスマー、パリとドイツで療法を否定される。     史実
1784-5 28 「神よなぜ許される」 「神よなぜ許される」 脳みその配達 ザルツブルク コロレド・アルコ 史実ではない?(メスマーウィーン追放後)
(1793)       メスマー、離婚した妻の遺産整理のため再びウィーンを訪問し、再度追放。      
1809 死後18年   フィナーレ モーツァルトの頭蓋骨発見 サンクト・マルクス墓地 コンスタンツェ 史実ではない?(メスマーウィーン追放後)

 

●ミュージカルモーツァルト!でのメスマーの役割

 

しかし、初演当時の生身のメスマーの登場シーンである、プロローグ、2幕始め、フィナーレの内、後の2つがカットされちゃったら、あのプロローグがかなり他の部分と関係なくなって、浮いてくるなー。

 

おまけに脳みそコレクションも史実でないとすれば、あれはかろうじてメスマーを忘れないでアピールだったのかなw.

 

これはやはり、メスマーが当初もっとはっきりした狂言回し役だったという説が色濃くなってきましたねー。メスマーの登場シーンは、初演に至るまででもかなりカットされて、それが新演出版になると、プロローグと脳みそコレクションだけが残されちゃったんだね。。とっても重要なはずの神童コンサートですら、もっと有名なシェーンブルンのコンサートに置き換えられてしまったんだし、、。

 

なんだか、インチキ医者とか色々と言われてる上に、登場シーンも差し替えたりカットされたして、メスマーが段々かわいそうになってきた。。それも、10代のモーツァルトがものすごくお世話になってたって、レオポルトの手紙読んでてすごく感じたし、恩人なわけだし。

 

●まとめ

 

けど、別にモーツァルト!のメスマーの登場シーンが史実か史実じゃないかは、ミュージカルの本筋と関係ないから、別に重箱の隅を突くつもりはないんです。単に調べてて楽しかっただけw

 

クンツェ氏もインタビューで「歴史的に正確であろうと思ったわけでは全くありません」「現代の観客のために、当時の人物を動かしているのです」って言ってるし、メスマーてほんといてもいなくてもいいキャラだしね。。

 

けど、メスマーに着目してみたら、意外な初演と新演出版の違いや、それによる変更の影響が見えてきて、とっても面白かった!田舎の城一個訪れるだけで、ここまで記事が書けてしまうんだから、モーツァルトを巡る史実、ほんと面白い!

 

モーツァルト、メスマー、コロレドと、同時代に生きた個性の強い人物たち。こんな濃い人たちが、このウィーンでウロウロしてたなんで、考えるだけでもワクワクしますね。ちょっと今度、Landstrasseのメスマー邸を見に行ってみようかなー。

 

 

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2016-03-09 16:23 | カテゴリ:モーツァルトの歴史

ここまで検証してきて、1809年にコンスタンツェが、メスマーとサンクト・マルクス墓地にいるのは難しいのでは?という流れになってきました。

 

それでは、メスマーとサンクトマルクス墓地は無関係だったんでしょうか?これには、興味深い事実が出てきました。

 

メスマーの有名な患者に、盲目の女性作曲家でピアニストの、マリア・テレジア・パラディスMaria Theresia Paradisという人がいます。

 

この人もモーツァルトの同時代人で、おまけにメスマーを取り巻く音楽家ですので、当然モーツァルトとも親交があります。モーツァルトの『ピアノ協奏曲第18番 変ロ長調』はパラディスのために書かれたと言われています。

 

彼女は3歳頃で視力を失い、18歳になった1766年から11年間、メスマーの治療を受けました。

 

その催眠療法で使われた「グラス・ハーモニカ」という謎の楽器は、当時人を死に至らしめると言われていたため、メスマーはこの治療のために、ウィーンを追放されることになります。(これが理由で、再度妻の遺産整理のためにウィーンに戻ってきても、またすぐ追放されてしまったんですね。。)

 

少し後の時代のものだけど、グラス・ハーモニカってこんなもの。

 

こうやって演奏するらしい。 

 

あと、磁石を使って催眠療法をしている時のメスマーが像になってました。

 

Mesmer. Plastik von Peter Lenk auf der Hafenmole von Meersburg

 

つまり、メスマーの最も有名な患者で、彼の没落の引き金ともなった人の遺体が眠る墓地が、サンクトマルクスだったということは史実です。もしかしてメスマーは、モーツァルトじゃなくてこの盲目の女性音楽家を探していたのでは?なんて勘ぐってしまいます。

 

(次回、モーツァルトとメスマーの関係をまとめます)

 

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2016-03-07 16:21 | カテゴリ:モーツァルトの歴史

ウィーンミュージカル、モーツァルト!で超脇役で登場するメスマー博士と、モーツァルトの交流について、史実を検証していくシリーズ第6弾です。

 

モーツァルト!に関する記事は、モーツァルト!カテゴリからどうぞ。

 

●ウィーン新演出版で削られた、第二の墓場のシーン

 

・2幕プロローグの墓場

 

ウィーン初演版(ハンブルク版、日本版も)では、1幕のプロローグだけではなく、2幕の始め(プロローグ)もこの墓場のシーンで始まります。

 

コンスタンツェに墓の位置を指定された墓掘りが墓を掘り始め(正しい位置かは別として)、メスマーはモーツァルトに性格ついてコンスタンツェに質問しますが、コンスタンツェは口を閉ざします。

 

ここで興味深いのは、モーツァルトとの関係について、メスマーは「もちろん何度か遠目に見たことはあるけれど」「彼の性格は特異で変わっていたように見受けられたが」とありますが、遠目に見たと言うより、あなた10代のモーツァルトのパトロンで、16歳のモーツァルトはあなたの所に入り浸ってたんじゃなかった?

 

このシーンはウィーン新演出版ではカットされていて、2幕はいきなり「ここはウィーン」からスタートしますね。

 

 

・旧版「ここはウィーン!」のメスマー

 

そして、次の「ここはウィーン」のシーンにもメスマーはいます。この場面、ハンブルク版のリブレットによると、ウィーン(カプツィーナ教会向かいの市営カジノMehlgrube)でのピアノコンサートのあと、メスマー、シカネーダー、男爵夫人を含む観客がウィーンについて色々話してるわけですが、この歌の一番スパイスの聞いている「ナイフを隠して手にキスをする」のソロパート、歌ってるのメスマーだ!

 

メスマー本人が一番、このウィーンの怖さを知っていた人だから、ものすごい説得力あるわ。。この名言を彼に言わせたクンツェ氏すごい!

 

けどね。。この場面にもメスマーは登場できないはずなんだよね。。だって、前述のとおり、メスマーは1777年にウィーンを追放されてるので、この場面の1781年にウィーンにいるのは無理なんだよね。。

 

・新演出版の「ここはウィーン」

 

そしてこのシーン、新演出版では、ミヒャエル広場の旧ブルク劇場の舞台と場所が変わっていて、オペラ「後宮からの誘拐」上演後となっています。皇帝ヨーゼフII世も出てきてますね。

 

ちなみにこの作品は、ヨーゼフII世の命で作られ、旧ブルク劇場で1783年に初演されたので、この事自体は史実です。(背景に使われているのは国立オペラ座の正面玄関ですけど、これはわかりすぎるくらいの転用ですので、間違いと言うのは野暮ですねw)

 

この「ここはウィーン」新演出版の場面にメスマーが目立つ形でいたかどうかはわかりません。

 

 

というわけで、「ここはウィーン」のシーンの場所も登場人物も、ガラッと変わってしまいましたね。年は1782年が1783年に変わっただけで、モーツァルトの年齢も25-26歳なので、大きな影響はないのかもしれません。

 

 

●ラストシーンで再び登場するメスマー

 

あらすじ(初演版、新演出版)によると、ヴォルフガングの死後、ナンネールが小箱を開ける前に、再びメスマーが登場すると書かれています。

 

Auf dem St. Marxer Friedhof hält Mesmer einen ausgegrabenen

Menschenschädel in die Höhe.

 

「サンクトマルクス墓地では、メスマーが掘り出された頭蓋骨を取り出し、高く掲げる」

 

えっと。。新演出版でこのシーン見た記憶ないんですけど。。2幕始めの墓地のシーンと同じく、完全にカットされていると思われます。そもそもモーツァルトの頭蓋骨特定できるわけないしね。。

 

・この場面の詳細

 

ハンブルク版のリブレットを見てみますと、

 

チェチェリア・ヴェーバーがヴォルフガングの死を確認し、レクイエムの報酬として得た金を発見して喜ぶ

→舞台の別の場所で、メスマーが頭蓋骨を興奮して手に取り、コンスタンツェに目もくれず、報酬の入った袋を渡す。金を数えるコンスタンツェ。

→ナンネールがモーツァルトの目を閉じてやり、小箱を開ける、

 

という流れになります。

 

新演出版では、墓場のシーンがカットされ、チェチェリア→ナンネールの順番で入ってきます。チェチェリアの金の小袋もなかった気が。

 

旧版は、チェチェリアの金→コンスタンツェの金→ナンネールの小箱、という流れがとてもきれいな印象です。

 

新板は、なぜ唐突にチェチェリア?で次がナンネールで、目を閉じてあげるのね。からの、小箱(Der Prinz ist fortが流れる)という流れでした。少し疑問が残ったのを覚えています。

 

 

 

(次は、インチキと言われたメスマーの療法に迫ります)

 

 

 

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2016-03-05 16:12 | カテゴリ:モーツァルトの歴史

ミュージカル「モーツァルト!」でのメスマー登場シーンの検証続きです。

 

モーツァルト!に関する記事は、モーツァルト!カテゴリからどうぞ。

 

●メスマーと脳みそコレクション

 

あと、「神よなぜ許される」のシーンで、コロレドに脳みそ送り付けたのもメスマーでしたね。これも史実なのか、メスマーという同時代の有名人を出したかっただけなのか、検証してみました。

 

コロレド

 

FranzMesmer_thumb[2]_thumb

メスマー

 

コロレドの「神よなぜ許される」の直前に、アルコは、「画家の脳みそが、パリのメスマー教授から届きました」と言って、ホルマリン漬けの脳みそを持ってきていましたね。

 

ハンガリー版では、コロレドはそもそも脳みそコレクションルームで「神よなぜ許される」を歌います。コロレドもメスマーも脳みそマニアでコレクター仲間です(笑)

 

けど、ぱっと調べた感じ、コロレドが脳みそコレクションをしていたという話もないし、コロレドとメスマーが交流があったという話も見つかりません。

 

一応、この「神よなぜ愛される」の歌は、コロレドの「芸術の部屋」と呼ばれる場所を舞台としているとリブレットの記されています。「ここには、美術品のレプリカや動物の剥製が置かれている」とされ、コロレドが神と芸術を思考するための部屋ということがわかります。まあ、剥製があったらホルマリン漬けもありそうな気もしますが。

 

コロレド自身知識人で、自然科学から音楽からいろんなことを専門家並みに知っていたので、医学と芸術との関連を脳みそから調査しようと思っていても不思議ではありません。それに、そのコレクションにメスマーが協力していたというのも、あながち嘘ではない気がしてきました。

 

しかしそもそもメスマーは、当時王様レベルの偉い人だったコロレドに、脳みそを送れる立場だったんでしょうか?

 

・メスマーの脳みそ送りつけ事件を検証

 

それでは、メスマーがコロレドに脳みそを送りつけたかどうかを検証してみます。

 

まずはこの脳みそが送られた時期と場所を特定します。場所はアルコが「パリ」と言っていますので簡単ですね。

 

時期は、Der Prinz ist fort(ナンネールが貧しい恋人Franz Armand d'Ippoldと結婚したくてお金がないので、モーツァルトにお金の無心をした)とレオポルトのウィーン訪問の間です。

 

ナンネールが結局この貧しい恋人と結婚させてもらえず、金持ちの15才年上の男の3番目の妻になるが1784年です。また、「神はなぜ許される」の途中でレオポルトが入ってきて、ナンネールの子レオポルトを次の神童にする、という場面がありますが、このレオポルトの孫レオポルトの生年はわかりません。

 

ハンブルク版リブレットによると、次のシーンが1785年3月ザルツブルク(新演出版で削られたシーン、ウィーンに行った父の手紙を読むナンネールと夫の会話のシーン)なので、「神はなぜ許される」とメスマーからのコンタクトは1784~85年の間のどこかの時点ですね。

 

それでは、この間メスマーはどこにいたでしょう?

 

1784年はメスマーにとって重要な年です。当時パリにいたメスマーは、当時の科学者たちの会議にて、彼の手法の一つが否定され、失意の内にパリを去り、イギリス、その後ドイツに行きます。

 

更に翌年、ドイツのライン川沿いの町バーデンにて、同じく彼の磁気療法が否定され、1788年にはドイツのカールスルーエにいたとされています。

 

まあ、パリに行ったりできなくもない距離ですが、メスマの没落の始まりと言っていい時代に、のんきにコロレドに脳みそ送ってる場合なのでしょうかね?

 

おまけにメスマーは、1777年に謎の笛を使った治療法が民衆を不安に陥れるとして、ウィーンから追放されている身です。そんな怪しい人物と、王様レベルのコロレドが親交を持つかどうかも少し疑問に思います。

 

 

(次回で、ウィーン新演出版でカットされた、メスマーの出番を検証します。)

 

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2016-03-03 16:12 | カテゴリ:モーツァルトの歴史

モーツァルトとメスマー博士の関係について、モーツァルト!のミュージカルから史実を検証しています。

 

モーツァルト!に関する記事は、モーツァルト!カテゴリからどうぞ。

 

今回は、プロローグでメスマーとコンスタンツェが、モーツァルトの遺体を探しに行く、サンクトマルクス墓地について調べてみました。

 

・メスマはコンスタンツェとサンクトマルクス墓地に行ったのか?

 

サンクト・マルクス墓地のモーツァルトが埋められたっぽい場所に建てられた「嘆きの天使」

 

さて、最初に戻って、メスマーは本当にコンスタンツェとサンクトマルクス墓地に行ったんでしょうか?そして、モーツァルトの遺体を発見したんでしょうか?

 

色々調べてみましたが、これを証明する史実は出てきませんでした。

 

メスマーはウィーンで活躍した後パリに行きましたが、その後人気が落ち、フランス、ウィーン、スイスとウロウロします。最後の20年間に何をしていたかはあまりよくわかっていません。

 

ということは、コンスタンツェと一緒にサンクトマルクス墓地にいた1809年のメスマーは、40年前のモーツァルトのパトロンだった頃のイケイケハイテク医者ではもうなかったということです

 

モーツァルト部分以外のサンクト・マルクス墓地の奥の方はこんな感じ。時間が止まったようで雰囲気があります。

 

・メスマーの住処

 

それでは、このあたりのメスマーの動向を追ってみましょう。1801年までパリにいた事が確認されていて、1809年から1812年にはスイスにいたことがわかっています。物理的に1809年にウィーンにいるのは結構無駄な移動が発生する気がしますね。

 

・メスマーのウィーン追放

 

更に、彼のウィーン訪問を難しくする裏付けがあります。1777年の時点でメスマーは一度目のウィーン追放を命じられています。そしてパリで一通り活躍するわけですね。

 

そして、1793年9月、彼は離婚した妻の遺産整理のため、再びこっそりウィーンに舞い戻ります。しかし、この時スパイに付けられていました。11月に逮捕され、12月にはウィーンを再追放されました。

 

二回も追放されているのに(おまけにスパイまでついてるのに)、1809年にまた戻ってくるって無理がないですか?それも、わざわざフランスかスイスから、モーツァルトの遺体を探しに、このタイミングでウィーンに戻ってくるでしょうか?なんとなく無理な気もしますが。。

 

というわけで、ウィーンから2度も追放されたメスマーがコンスタンツェとサンクトマルクス墓地に行ってモーツァルトの遺体を探した、という話は、史実っぽくない気がします。

 

 

●メスマーはモーツァルトマニア?

 

メスマーが本当にモーツァルトの墓を探しだして遺体を掘り出そうとしたとして、どうしてそんなものが欲しかったんでしょう?ミュージカルでは、メスマーは脳みそマニアだったようですし、もしかしたら昔パトロンを務めた神童の大ファンで、モーツァルトマニアだったのかもしれません。

 

しかし、メスマーが脳みそマニアという史実も、モーツァルトマニアという史実も、残念ながら見つかりませんでした。なんでこんなところで脳内で盛り上がって、ミュージカルまで始めてしまったのか、ちょっとわかりませんね。。

 

モーツァルトマニアと言えば、コンスタンツェと、その再婚夫のニッセンなので(モーツァルトの作品や遺稿を整理したり、ニッセンは伝記を書いたりした)、この二人こそモーツァルトの墓を必死で探したのでは?という気もするけど。

 

コンスタンツェの絵

 

10年位前に新発見されて大騒ぎになった、晩年のコンスタンツェの写真

 

コンスタンツェの二番目の夫ニッセン

 

 

(次回は、コロレドとメスマーの関係に迫ってみます)

 

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2016-03-01 16:12 | カテゴリ:モーツァルトの歴史

偶然訪れた田舎のお城がメスマー博士の居城で、モーツァルトが訪れたことがあるという史実を発見し、そこから取り憑かれたようにメスマーについて調べ出しました。

 

今回は、モーツァルト!のミュージカルに登場するメスマーとモーツァルトの関係について紐解いてみます。

 

モーツァルト!に関する記事は、モーツァルト!カテゴリからどうぞ。

 

モーツァルト

 

FranzMesmer_thumb[2]

メスマー

 

 

この二人が直接会って話すシーンはミュージカル「モーツァルト!」ではありませんが、メスマーは同時代の有名人だけあって、チラチラと名前が出てきます。

 

新演出版に限ると、メスマーが登場するのは2箇所。プロローグとコロレドに脳みそを送りつけるところです。生身で登場するのはプロローグだけですね。おまけにモーツァルト死後ですし。有名人な割に、なんでここだけ登場するの?って少し思っていました。

 

今回調べてみて、昔はメスマーはこの作品でもっと重要な立場であったことがわかりました。こんな視点からこの作品を見て、新しい発見があるとは。。

 

●プロローグ

 

まず、メスマーが一番目立つのはプロローグのコンスタンツェとの会話。メスマーがサンクト・マルクス共同墓地で、金と引き換えにモーツァルトの埋葬された場所をコンスタンツェに特定してくれと頼む場面ですね。

 

サンクト・マルクス墓地のモーツァルトが埋められたっぽい場所に建てられた「嘆きの天使」

 

おそらくメスマーは、モーツァルトの頭蓋骨と脳みその痕跡目当てだったと思われますが(後で脳みそのホルマリン漬けをコロレドに送りつけてるので)、コンスタンツェは墓地の埋葬に同行していないので、どこに埋葬されているかわからないはずです。

 

あらすじや台本では、このサンクトマルクス墓地訪問は1809年11月18日となっています。ここで、40年前のモーツァルトの神童ぶりを思い出すメスマーが脳内で盛り上がって、ミュージカルがスタートします。

 

(この墓地のシーンは、後で詳しく検証します)

 

神童モーツァルトのピアノ披露はいつどこで?

 

★12歳でメスマー邸(ウィーン初演、ハンブルク版、日本版)

 

前のプロローグでメスマーの脳内から物語が展開してるので、次の子供モーツァルトがピアノを披露している場面は、メスマー邸なんです。少なくとも初演版では。

 

(注:ウィーン初演版、ハンブルク版、日本版ともに、この場面はメスマー邸です)

 

・メスマー邸でのモーツァルトの年齢と史実

 

メスマーは実際10代のモーツァルトのパトロンだったので、実際のメスマーの自宅で演奏したと、記録に残っています。

 

この演奏がRothmuehle城だったらいいのになーと調べてみましたが、モーツァルトがRothmuehle城を訪れたのは1772年なので16歳。この場面の神童モーツァルトは1768年5月、12歳です。

 

モーツァルト12歳の年、メスマーの依頼で歌劇「バスティアンとバスティエンヌ」を書き、ウィーンのメスマーの自宅にて初演されました。(作曲したことは史実ですが、初演に関しては反対意見もあります)

 

メスマーは当時ウィーンのLandstrasse 261に住んでいましたが、この家には研究室やクリニックの他に、大きな庭と劇場があったとのことですので、モーツァルトが演奏するにはぴったりですね!

 

モーツァルトはこの頃、パトロンであるメスマーのために歌劇を作曲したり、演奏会を開いたりしていましたので、この場面はそんな演奏会の一つだと言えます。

 

この時期ピッタリの12歳のモーツァルトの絵がありました!

 

Wolfgang child - 1770

Vienna, 30 July 1768  (1770年?)

12歳(14歳?)のモーツァルト。赤いコートを着ているが、これはマリア・テレジアにもらったものとは別物。

 

・ミュージカル的には、メスマー邸のどこで演奏した?

 

さて、この最初のピアノ披露のシーンが初演でメスマー邸だとしたら、一体場所はどこなんでしょう?Wikipediaのあらすじ(初演当時ののままで、新演出版仕様になってない)によると、こう書いてあります。

 

Am Grab angekommen, erinnert sich Mesmer an den Auftritt des Wunderknaben vor vierzig Jahren auf der Freiluftbühne im Barockgarten seiner Wiener Villa.

 

ってことは、やはり場所は「ウィーンにあるメスマー邸のバロック庭園の野外ステージ」ということで、Rothmuehle城ではないってことですね。

 

 

ちなみに、ハンブルク版のリブレットでは、In einem Baroksaal (…) auf Einladung des Arztes Dr. Anton Mesmerとあるので、「バロックの間にて、医者であるアントン・メスマー博士の招きに応じて」となっています。この場には、サリエリや男爵夫人もいて、アマデは「マリア・テレジアにプレゼントされた、マキシミリアンのコートを着ている」とあります。写真ではアマデは赤いコートを着ています。

 

また、リブレットでは、Auf Wolfgang Amade Mozart!と乾杯の音頭を取るのがメスマーです。(それ以外に一人で言葉を発する場面はありません)

 

・メスマーはルキーニ?

 

この話をちらっとツイッターに書いたら、フォロワーさんが「元々メスマーは、モーツァルト!の狂言回し的な位置づけの予定だったのではないか」とおっしゃっていました。

 

モーツァルト!のルキーニはメスマー!若いころ大人気で、晩年は惨めだったり、ヨーロッパ中飛び回った「天才」だったり、共通点が多いし、ありえますねー。

 

★6歳でシェーンブルン宮殿(ウィーン新演出版)

 

ウィーン初演版、ハンブルク版、日本版では12才でメスマー邸で演奏していたモーツァルトですが、新演出版ではシェーンブルン宮殿でマリア・テレジアの前で演奏しています。これっていつのことなんでしょう?

 

・シェーンブルン宮殿での御前演奏の史実

 

モーツァルトがマリア・テレジアに呼ばれて、シェーンブルン宮殿で演奏したのは、1762年10月13日(時間帯は15-18時)ですので、12才どころか6歳の時です。(ソース:Wolfgang Amadeus Mozart – 1762 in Passau | Mozart in Passau 1762

 

これが1763年のモーツァルト。マリアテレジアの前で演奏した一年後の7歳。この服、マリア・テレジアにもらったもの。赤くないよね?

 

・シェーンブルン宮殿のどこ?

 

演奏会が開かれた部屋は、鏡の間かローザの間だと言われています。

 

鏡の間はこの部屋

Das Spiegelzimmer (Zustand 1860)

 

ローザの間Rosa Zimmerはこちら

 

 

Die Große Galerie (1961) ←これが、新演出版の背景の部屋じゃない?鏡の間じゃなくて大広間だった。。それも古いバージョン。

 

Große Galerie 2015←最近改装したらしいから、これが今の大広間。

 

部屋を見比べてみたら、新演出版の背景の大広間はちょっと大きすぎるよね。鏡の間かローザの間くらいのサイズが、こういう演奏会にはちょうどいい感じ。

 

・その場にいたのはだれ?

 

モーツァルトは、父レオポルトと姉ナンネールとともに、マリア・テレジアとその夫フランツ1世の前で演奏しました。

 

この時に7歳のマリー・アントワネットにプロポーズしたという伝説もありますね。こちらは伝説だろうと言われていますが、その場にいた人の目撃談として、モーツァルトは演奏後マリア・テレジアの膝に飛び乗って抱きついたという話があり、こちらは真実らしいです。もちろん新演出版モーツァルト!でも膝に飛び乗っていますね♪

 

父レオポルトが知人に書いた手紙で、その様子が目に浮かぶように書かれています。

 

„der Kayserin auf die Schooß gesprungen, sie um den Halß bekommen, und rechtschaffen abgeküßt“.

 

「(ヴォルフガングは)女帝の膝に飛び乗り、首に手を回し、キスをした」

 

また、この御前演奏のご褒美として、史実では上記の絵画で描かれたコートをマリア・テレジアから二日後に贈られます。(舞台では赤いコートを女帝本人から着せてもらう)

 

・ミュージカル版のシェーンブルン宮殿の演奏シーン

 

モーツァルト!新演出版のプログラムを見ると、シェーンブルンでの演奏の年は書いていませんが、そのあとで「14年後に大人になったモーツァルトは~」との記述がありますので、シェーンブルンのシーンは6歳だと推測できます。

 

また、演奏の場所は、シーン紹介では「シェーンブルン宮殿のサロン」とされていますが、背景画は改装前の大広間のように見えます。

 

それでは、エピソード毎に史実チェック!

・シェーンブルン宮殿の演奏は、史実も新演出版も6歳。

・マリア・テレジアの膝に飛び乗ってキスしたのは史実。

・演奏された場所は、史実では鏡の間かローザの間。舞台の背景画は改装前の大広間

・マリア・テレジアから贈られたコートは水色(薄い紫?)で赤ではないあ。また、その場で手渡されたものではなく、後日贈られた。

 

・まとめ

 

というわけで、新演出版では、この「神童披露」の場面は、初演のメスマー邸で12才からシェーンブルン宮殿で6才に完全に変更したようですね。

 

旧版プロローグのメスマー邸での演奏も、新演出版のシェーンブルン宮殿の6才の演奏会も史実です。後はどちらを取るか(メスマーを強調した筋にするか、メスマーを捨てて観光客受けを良くするか)ってことですね。アマデの見た目の年齢は6歳でも12歳でも取れる感じです。

 

(次回はプロローグの謎、メスマーと墓地について紐解きます)

 

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