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2023-09-02 13:00 | カテゴリ:エリザベート(シシィ)の歴史
前回に引き続き、映画「エリザベート1878」(原題「コルサージュ」Corsage)の登場人物の、史実に基づいた背景を紹介していきます。

※映画レポはこちら(前半)こちら(後半)から。登場人物紹介は、「エリザベートの歴史」カテゴリをどうぞ。

今回は、今まで紹介してこなかった、シシィを取り巻く人物たちをまとめてご紹介します。一瞬しか登場しない人物でも、実は結構有名人だったりします。

●美術史美術館、自然史博物館建築家カール・フォン・ハーゼナウアー男爵/Baron Karl von Hasenauer
1833年ウィーン生、1894年ウィーン没

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リング大通りのネオバロック様式の建築物を多く建築した。代表作は、美術史美術館、自然史博物館の他、ブルク劇場、ホーフブルク新宮、マリア・テレジア広場のマリア・テレジア像、ヘルメスヴィラなど。1873年のウィーン万博のチーフ建築家でもある。
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<美術史美術館、マリア・テレジア像、自然史博物館>

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<ホーフブルク新宮>

中欧墓地の名誉墓地に埋葬され、ウィーンには18区と19区に彼の名を冠した通りがある。

●映画の発明家ルイ・ル・プランス/Louis Le Prince
1841年8月28日 - 1890年9月16日失踪

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世界初の映画を撮影した発明家。後に「映画の父」と呼ばれるが、志半ばで失踪したため、後世への影響は少ない。

フランス人だが、主にイギリスとアメリカで活動した。
1866年にイギリスのリーズに引っ越し、三年後イギリス人と結婚。1871年に夫婦でLeeds Technical School of Artsを創立。写真を金属や陶器に転写する技術で、ヴィクトリア女王からも注文を受けた。

1881年ニューヨークへ引っ越し。1886年にアメリカで、写真を撮影し、映像が動いているように見せる技術の特許申請。1888年に特許取得。これは、他の映像撮影の発明家(リュミエール兄弟やエジソン)より早かった。その後イギリスにもどる。

1890年、発明品を披露するためにアメリカに渡る直前、一旦パリの弟に会いに行った時に謎に失踪を遂げる。

※1878年時点でルイはイギリスにいたが、映像撮影を発明する前で、シシィと出会ったという記録はない。

●Graf Holnstein(女官マリーの婚約者?)/Maximilian Karl Theodor von Holnstein
1835年生まれのバイエルン外交官。シシィの実家ヴィッテルスバッハ家の血縁。

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ルートヴィッヒ二世の幼馴染で信任が厚い(最後三年は王の浪費を批判し、遠のく)

※女官マリーの婚約者だったかどうかについては不明だが、どちらも男爵家なので、家柄としては合っている。Holnstein男爵はバイエルンの人なので、マリーが結婚したらウィーンを去ることは確実で、シシィが嫌がった可能性はある。

***

というわけで、映画「エリザベート1878」(原題「コルサージュ」Corsage)の登場人物で、名前がついている人は全て解説していきました!!

史実と想像が色々入り混じった映画ではありますが、今回調べてみて、どの部分が史実かがはっきりわかってきました。前半は史実のエピソードをうまく使ってリアリティを出し、後半は有名な史実ですら大きくひっくり返してファンタジーみを出していくという、絶妙な構成になっているんですね。エリザベートやその時代の初心者向けではないものの、詳しければ詳しいほど色々と興味深い点が増える映画だったと思います。

2023-08-30 13:00 | カテゴリ:エリザベート(シシィ)の歴史
前回に引き続き、映画「エリザベート1878」(原題「コルサージュ」Corsage)の登場人物の、史実に基づいた背景を紹介していきます。

※映画レポはこちら(前半)こちら(後半)から。登場人物紹介は、「エリザベートの歴史」カテゴリをどうぞ。

今回は、シシィの画家や医者をご紹介します。ドラッグの使用には驚かれた方も多かったかもしれませんが、当時のドラッグ事情は今よりずっと緩かった、というお話も付け足しています。

●画家ゲオルグ・ラープ/Georg Raab, Painter of the Court

シシィの有名は絵画を複数描いた画家。1821年ウィーン生、1885年ウィーン没

映画で出てきたルビーの衣装は、1879年銀婚式の時のもの。

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他にも、ハンガリー戴冠式の絵画(1867)や、緑の衣装の絵画(1874)などの有名なシシィの肖像画も残している。


以下の16歳のルドルフの絵画も、Raabの作だ。

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●医師ヘルマン・フォン・ヴィーダ―ホーファー/Dr. Hermann von Widerhofer

1832年オーストリア生、1901年没
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オーストリアの小児科医で、小児科教授。専門は小児科だが、皇室の子供達以外に、皇室ファミリー全体の主治医だったこともある。1889年ルドルフの死後、ホーフブルクで検死を行ったのもこの人。

シシィとWiderhoferとのエピソードとして、1875年にシシィがノルマンディーで落馬事故を起こした際、ひどい頭痛に悩まされた。その時に「頭痛が治らないなら、髪を切らなければならないだろう」と言ったのがWiderhofer。女官マリーの日記に記されている。

結局頭痛は治り、髪は切らずに済んだが、ウィーンに戻ったシシィは、本人は乗馬を続けながらも、娘のマリー・ヴァレリーに乗馬禁止を言い渡した。

「Sisi ... und ich erzähle euch die Wahrheit(シシィ・・と私が真実を語る)」という2012年のドキュメンたりー作品の語り手ともなっている。この映画では、皇室一家の主治医として、シシィの健康及び精神状態を重点的に語っている。

●精神科医Maximilian Leidesdorf

映画では、精神病院内を案内する医師。
総合病院の精神科長を務めた精神科医で、バイエルン王ルートヴィッヒ二世の精神状態について意見を述べた。

●当時のドラッグについての考え方と、ハプスブルク家が使用したドラッグ

当時コカイン、ヘロイン、モルヒネ、アヘン、カナビスは、薬として普通に処方されていた。例えば、歯痛に効くアヘンのうがい薬、モルヒネやコカインのクリームなど、新聞記事にも広告がしばしば打たれていて、これらの薬を処方する医者も多数いた。

皇太子ルドルフがモルヒネを常用していたことは有名だが、これは淋病のために処方されていて、使ったドラッグはモルヒネのみだった。モルヒネは、他のドラッグより害は少なかったとされる。

シシィ博物館にはコカインの薬箱があることは有名だが、実際シシィが使っていたのはカナビス、アヘン、コカイン、モルヒネだった(ヘロインの使用は確認されていない)。

フランツ・ヨーゼフもコカインを使っていた。皇位継承者フランツ・フェルディナントは、結核の咳のためにヘロイン、アヘン、コカイン、コデインを処方された。

特に梅毒と結核に対してドラッグが処方されることが多かったが、結核が多かったのはリング大通りの大工事によるところも大きい。

50年間にわたる大工事が行われ、砂塵が舞った首都ウィーン。ここに住む人々は、ドラッグの助けを日常的に受けながら、「ウィーンの病」をいやしていた。

参考:https://magazin.wienmuseum.at/hausapotheke-um-1900

2023-08-28 13:00 | カテゴリ:エリザベート(シシィ)の歴史
前回に引き続き、映画「エリザベート1878」(原題「コルサージュ」Corsage)の登場人物の、史実に基づいた背景を紹介していきます。

※映画レポはこちら(前半)こちら(後半)から。登場人物紹介は、「エリザベートの歴史」カテゴリをどうぞ。

今回は、フランツ・ヨーゼフの愛人として登場した、アナ・ナホウスキをご紹介します。

●アナ・ナホウスキ(フランツ・ヨーゼフの愛人)/Anna Nahowski

1859年ウィーン生、1931年没。シシィの22歳年下。1878年時点で19歳。
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1874年 15歳でギャンブル中毒でアル中の男と結婚。

1875年 シェーンブルンの散歩中に偶然フランツ・ヨーゼフ(45歳)と知り合う。フランツ・ヨーゼフが「まじめに散歩してるんですね」"Sie gehen aber fleißig spazieren."と話しかけた。この時のことを「人生最高の日」とAnnaは回想している。

1878年、夫の留守中に、Mariahilfの自宅を訪れていいかフランツ・ヨーゼフが尋ね、実際に自宅を訪問し、ここで関係が始まる。その後すぐ最初の夫と離婚し、直後に鉄道員と再婚。

※映画の1878年からAnnaと皇帝の関係が始まっていて、シェーンブルン庭園散歩中のエピソードや、「人生最高の日」など、ディテールまで使われている。

どちらの夫にも借金があったが、全て皇室が借金を返し、Annaに生活費も渡していた。

二回目の夫Nahowskiは南鉄道の公務員だった。1880年、夫は「上からの命令で」Galizienに転勤となるが、単身赴任のままAnnaはウィーンに残った。皇帝はAnnaに5万グルデンを渡し、シェーンブルン近くのヴィラに住まわせ、朝5時に訪問した。

1883年頃からフランツ・ヨーゼフはカタリナ・シュラットとの親交を深め始める。Annaとの関係は隠されていたが、カタリナ・シュラットとの親交は比較的知られていた。

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<カタリナ・シュラット>

1886年、Annaは皇帝とカタリナ・シュラットとの噂を耳にし、シェーンブルン庭園に忍び込み、二人を見つけ、話そうとしたが、その時にはもう皇帝の心は離れていた。訪問は少なくなり。1889年マイヤーリンク事件直後、大金の手切れ金と引き換えに別れを告げられる。

Annaには子供が五人いた。うち皇帝の子供の可能性があるのは、HeleneとFranz Josephの二人。
1885年に生まれた娘Heleneは後の作曲家Alban Bergの妻となった。
息子Franz Josephは神経障害があり、月齢が合わないため、皇帝と血がつながっていない可能性も指されている。1930年皇帝の100歳の誕生日に左手の小指を切り落としたことで、Steinhof精神病院に送られた。

1931年71歳でこの世を去る。日記は娘ヘレネに託され、現在国立図書館で管理されている。ヒーツィング墓地に埋葬されている。

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<作曲家アーノルト・シェーンベルクが描いた、Helene Nahowskiの絵画>
2023-08-26 13:00 | カテゴリ:エリザベート(シシィ)の歴史
前回に引き続き、映画「エリザベート1878」(原題「コルサージュ」Corsage)の登場人物の、史実に基づいた背景を紹介していきます。

※映画レポはこちら(前半)こちら(後半)から。登場人物紹介は、「エリザベートの歴史」カテゴリをどうぞ。

今回は、特にシシィの二人の女官、イーダ・フェレンツィとマリー・フェステティクス、そして美容師のファニィ・フェイファリクをご紹介します。

●イーダ・フェレンツィ(女官)/Ida Ferenczy

1839年ハンガリー生、1928年ウィーン没。シシィの二歳年下
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<この写真の中央の女性。その左の黒い服はシシィ。登山中の写真>

ハンガリーの下級貴族の娘。読み書きと外国語としてのドイツ語は学校で習った程度。

ちょうどシシィがハンガリーに興味を持ち、ハンガリー人女官を探していたころ、ハンガリー人上級貴族出身の女官候補者リストの最後に、下級貴族出身のIdaの名があった。本来皇妃の女官にはなれない身分だが、シシィが選んだのは、Idaの名だった。

1864年、女官になると途端にシシィと仲良くなり、「秘密の言葉」としてハンガリー語を交わした。家族以外でシシィがDu(Te)を使った唯一の人物。

身分が低いため、プライベートのみで、公式の場には同行禁止だった。

1866年頃、イーダの助けを借りてデアークやアンドラーシ等ハンガリー人政治家と交流した。イーダ本人も政治家やジャーナリストと交流し、間接的にシシィのハンガリー贔屓を支えた。

仕事内容は、旅行への同行、ハンガリー語を教え、読み聞かせ。親しくなると、複雑な任務(お忍びでで人と会う手引き、カタリナ・シュラットにシシィの部屋を通過させることなど)もこなした。

仲が良かった女官はMarie Festetics(後述)とIrma Sztáray (シシィ暗殺時に付き添っていた女官)。

シシィに40年仕え、結婚はしなかった。シシィの死後ホーフブルクを出て、Reisnerstrasseに住んだ。

シシィの関係者の中では長寿で、1928年89歳で亡くなる。ハプスブルク家の崩壊まで目にした人物。

●マリー・フェステティクス(女官)/Marie Festetics
1839年ハンガリー生、1923年ハンガリー没。シシィの二歳年下で、イーダと同い年。
※シシィの妹のマリーと区別するため、記事中は「女官のマリー」と記述します。

Gräfin_Marie_Festetics_(1839_-_1923)

ハンガリーの男爵家の娘。父がハンガリー、母がオーストリア出身のため、ハンガリー語とドイツ語のバイリンガル。

フェレンツ・デアークとジュラ・アンドラーシの推薦により、1871年32歳の時にシシィの女官になる。

シシィのお気に入りの女官になり、マリーとイーダだけがシシィと近しい女官となった。結婚の話は、彼女を手放したくないシシィの希望により拒否。←映画で結婚を止められたエピソードは史実。

記していた日記が貴重な歴史的記録となる。←映画で日記を記すエピソードは史実から。

1882年、シシィの旅に付き合うことが難しくなり、別の女官Janka MikesとIrma Sztarayを指名する。マリーとイーダは内勤となる。

シシィの死後は、イーダの隣の3区の住居に暮らした。

※1878年時点では、シシィの旅行にも付き添い、日記も記していた。

●ファニィ・フェイファリク(シシィの美容師)/Fanny Feifalik/Franziska Feifalik 
 
1842年ウィーン生、1911年ウィーン没。シシィの5歳年下。

貴族ではなく平民出身。母は助産師、父は美容師。
ブルク劇場の美容師として、舞台出演者のヘアアレンジの仕事をしていた。カタリナ・シュラットなど有名女優も手掛けた。
1863年、シシィが舞台で女優の美しい髪形を見てほれ込み、シシィの髪結いの職をオファー。新聞記事にもなった。

シシィに信頼されていたため、女官マリーが嫉妬したほどだった。
シシィの朝の支度は3時間で、洗髪は3週間ごとに一日がかりだった。

1866年銀行員と結婚。
通常結婚したら女官はやめなければならないが、ファニィは結婚後も特別に残ることができたばかりでなく、夫は貴族に昇格し、共に王宮で働いた。

容姿はシシィのように細く美しかったため、影武者を任されたことも複数回あった。ウィーンではシシィの顔が知られているので通用しないが、影武者を務めたことは、1885年トルコのイズミルの港の船と、1895年マルセイユの駅は記録に残っている。

※映画では、シシィが髪を切って、美容師ファニィは王宮を去るが、実際は影武者を任されたのは女官ではなくファニィだった。

1896年(シシィの死の二年前)に夫と共に王宮の仕事を辞めて引退。1911年死亡。

※ファニィはミュージカル「エリザベート」でも、髪をすいている役として登場しますね。平民出身であるにもかかわらず、女官たちよりも取り立てられ、特別扱いをされていた、シシィにとっては唯一無二の存在でした。

2023-08-24 13:00 | カテゴリ:エリザベート(シシィ)の歴史
前回に引き続き、映画「エリザベート1878」(原題「コルサージュ」Corsage)の登場人物の、史実に基づいた背景を紹介していきます。

※映画レポはこちら(前半)こちら(後半)から。登場人物紹介は、「エリザベートの歴史」カテゴリをどうぞ。

今回は、特にシシィと噂になったイギリスの乗馬家ベイ・ミドルトンと、ハンガリーの政治家アンドラーシを取り上げます。

●ベイ・ミドルトン(イギリスの乗馬家)/George "Bay" Middleton
1846年イギリス、グラスゴー生、1892年没

Bay_Middleton_( _1846,_†_1892)

シシィの9歳年下。「ベイ」はニックネームで、本名はジョージ・ミドルトン。
乗馬スキルはイギリス一と名高い、イギリス人乗馬プロ。
スペンサー家(ダイアナ妃の実家)の厩舎担当。

1874年 シシィが妹の招待でイギリス初訪問。ベイと初めて会うが、この時は特に何もなし。
1875年 ベイ、裕福な領主の娘Charlotte Bairdと婚約。結婚を延期し続け、実際に結婚したのは1882年。

1876年 シシィイギリス再訪(39歳)。前回のイギリス訪問から練習を重ね、乗馬技術は向上していたため、シシィは危険な狩猟に参加する。その際、ベイを付き添い(Pilot)として紹介される。

お互い初対面での印象はあまり良くなかったが、馬を通じて尊敬、友情が育まれる。穴に落ちたら引っ張り起こし、高い障害物や広い溝を飛び越える高度な乗馬技術を教えるなど、乗馬で二人は深く理解し合い、シシィはこれにより世界でも類を見ない高い乗馬技術を身に着けた。

1876年夏と冬、シシィの招待を受けてハンガリーのゲデレー宮殿訪問。フランツ・ヨーゼフにもに会い、印象は悪くなかったが、FJは英語を話せず、ベイはドイツ語もハンガリー語も話せないので、ほぼ会話はなかった。ハンガリーでの生活では、シシィ以外英語を話せる人はいなかった。ハンガリーのシシィの乗馬仲間が嫉妬したという話も。

1877/78年、シシィだけでなく、19歳のルドルフもイギリスへ。冬に6週間滞在。妹のマリー(Marie von Nepal)もいた。女官のマリー(Marie Festetics)も同伴。←これが映画のエピソード。この時ベイには婚約者がいた。

ベイとシシィの間に関係があったからCharlotteとの婚約を延期したという説もあるが、最近の研究によると、お互いに馬や乗馬の分野では強く結びついていたが、男女の関係はなかったという説が有力。

ただ、当時スキャンダルの噂は確かにあり、イギリスを訪れた妹マリーや皇太子ルドルフもこの噂について知っていた(詳細は妹マリーの項目参照)。女官のマリー(Marie Festetics)がルドルフに噂を否定した。

1878年2月、シシィ、ウィーンに戻る。

夏にスペンサー家がバート・イシュルを訪れ、翌年のアイルランドでの狩猟を招待。

1879,80年はアイルランドでの大規模狩猟の準備をベイが行い、シシィも参加した。

1882年 シシィ最後のイギリス訪問。これを機に全ての馬を売り、乗馬をやめた(馬車博物館の館長によると、おそらく年齢のため)。その後もベイとシシィの間には手紙のやりとりはあった。

1880年代 ベイは別の貴族と不倫関係があり、おそらく婚外子(後のチャーチルの妻)もいた。

1888年 シシィとベイはアムステルダムでお忍びで会う。3月にはゲデレー訪問。

1892年 46歳で死亡。死因は落馬。

●アンドラーシ・ジュラ(ハンガリーの政治家)/Gyula Andrássy

1823年生まれのハンガリーの政治家。シシィより14歳年上。

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1848年ハンガリー革命に参加。革命は敗北しパリやロンドンに亡命生活。
1858年(60年?)ハンガリーに戻る。デアーク・フェレンツと共にオーストリア二重帝国を推進。

1866年の謁見で初めてシシィと知り合う。その後シシィと友情を育み、ハンガリーに関するアドバイザーとなる。

シシィとアンドラーシュの間で関係があったという噂は根強いが、専門家には否定されている。娘マリー・ヴァレリーがアンドラーシュとの間の子であるという噂に関しては、全ての「証拠」とされているものは否定されている。マリー・ヴァレリーが成長するにつれて、顕著にフランツ・ヨーゼフに似てきていることも、関係を否定する裏付けとなっている。

1867年 ハンガリーに自治が認められ、二重帝国の初代首相兼国防相に就任。

1878年、露土戦争後のベルリン会議(※)にて、ボスニア・ヘルツェゴビナに関する外交を担当。

※ベルリン会議は、バルカン半島のセルビア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴビナがロシアの支援を受け、オスマントルコからの独立を目指した「露土戦争」後の国際会議。オーストリア・ハンガリーは中立の立場をとった。ベルリン会議の結果、セルビアは独立し、ボスニア・ヘルツェゴビナはオーストリアの管理下になった。

次回は、シシィの三人の女官たちに焦点を当てます!)

2023-08-22 13:00 | カテゴリ:エリザベート(シシィ)の歴史
前回に引き続き、映画「エリザベート1878」(原題「コルサージュ」Corsage)の登場人物の背景を解説しています。


今回は、ルートヴィッヒ二世、シシィの妹のマリーの他に、家族ディナーの食卓にいたツッコミの鋭い謎のおばちゃんとその夫も紹介しておきます。

●ルートヴィッヒ二世
1845年ミュンヘン生、1886年Starnbergersee没

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シシィの8歳下の親戚。ルートヴィッヒ二世の祖父のルートヴィッヒ一世は、シシィの母ルドヴィカの腹違いの兄。シシィとは子供の頃から親しく育った仲。

1864年、18歳で祖父、父の跡を継ぎバイエルン王に。

1867年にシシィの一番下の妹Sophieと電撃婚約したが、何度も結婚式を延期し、同年秋に婚約を解消した。

1871年には既に公式の場から徐々に姿を消し、伯父のルイトポルトが政治を行うようになる。

映画の1878年には32歳。リンダ―ホフ宮殿が完成し、ヘーレンキームゼー宮殿の建築に取り掛かった頃。(ヘーレンキームゼー宮殿については、こちらのツイートから旅行レポあります)

1886年Starnberger Seeで溺死体となって発見される。

●イギリスに同行した「妹」マリー/Marie von Naepal/Marie in Bayern/Maria Sofia di Baviera/Maria Sophie of Bavaria/

1841年ポッセンホーフェン生、1925年ミュンヘン没

シシィには、兄弟5人、姉妹4人がいた。姉妹は上からヘレネ、シシィ、Marie Sophie、Mathilde Ludvika、Sophie Charlotte Augusteの順番。

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今回登場する妹Marie Sophieは、シシィの一つ下の妹で、シシィの4歳下。(後に登場する女官のMarieと区別するため、この記事では「妹マリー」と書きます。)

1857年16歳で両シチリア王と結婚し、両シチリア王妃となる。
後にイタリア統一によりガリバルディ軍に陥落され、「ブルボン家最期の砦」を守った「戦う王妃」と呼ばれる。1861年陥落と同時に両シチリア王国はなくなり、国を追われ、ミュンヘンやパリなど欧州を転々とする。

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王位にいたのはたった4年だったため、両シチリア王妃(Königin beider Sizilien)の他にナポリのマリー、バイエルンのマリーなど、呼称が複数ある。独語圏ではMarie von Naepal(ナポリのマリー)の呼称が一般的。

1878年時点では、国を追われ、欧州を転々としていた時期。イギリスではスペンサー家の居城にお世話になっていた。夫との間に子供はいなかった。

1877/78のイギリス滞在で、ベイを巡ってシシィと対立(嫉妬から?)。シシィとベイの噂をルドルフに伝え、ケンカになった。その後シシィはマリーに会うことを拒否し、妹がいるからという理由で、イギリスではなくアイルランドに狩猟に行くようになった。

●Princess Marie of Hohenlohe/マリー・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタイン

※シシィの家族ディナーの食卓で鋭いツッコミをしていたおばちゃん
1837年Woronice生、1920年Schloss Friedstein没

ザイン・ヴィットゲンシュタイン侯爵家の娘として、現在のウクライナで生まれ育つ。
母は作曲家フランツ・リストの愛人となり、ドイツへ。この母に呼び寄せられ、母、リスト、マリーの三人で暮らしていた。

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<リストの愛人をしていた母と娘マリー>

音楽家、芸術家が出入りする環境で育ち、母親から財産を受け継いだ。

後にコンスタンティン・ツー・ホーエンローエ=シリングスフュルストと結婚し、夫が宮内長官に命ぜられる。その後は多くの芸術家をパトロンとして支援した。

●Constable Hohenlohe-Schillingfürst/コンスタンティン・ツー・ホーエンローエ=シリングスフュルスト侯爵
※上記おばちゃんの夫

1828年ヘッセン生、1896年ウィーン没。
妻がマリー・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタイン。オーストリア・ハンガリー帝国の軍人、宮内長官。

フランツヨーゼフの二歳年上で、優秀な宮内長官として取り立てられ、活躍した。
主な仕事は、ウィーン市壁撤去作業とその後のリング大通り周辺の建築総括の指揮や、1873年ウィーン万博の建築総括、ブルク劇場総監督など。


2023-08-20 13:00 | カテゴリ:エリザベート(シシィ)の歴史
映画「エリザベート1878」(原題「コルサージュ」Corsage)の登場人物の史実をご紹介します。

※レポはこちら(前半)こちら(後半)から

シシィやルドルフなどの歴史上の著名人については、映画と関係のある年代のみ触れ、女官などについては生涯の中で、1878年前後のイベントがどのような位置づけだったかについても触れています。

それでは、まずはメジャーな歴史上の人物からどうぞ!

●エリザベート/Elisabeth von Österreich

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<ヴィンターハルターの絵は1865年なので、映画の14年前、27歳くらい>

1837年ヴィッテルスバッハ公女としてバイエルン王国生、1898年スイス、ジュネーブ没。
オーストリア皇妃、ハンガリー女王など、ハプスブルク帝国の複数の肩書を持つ。1877年12月24日に40歳の誕生日を迎える。

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<1879年(映画翌年)の銀婚式の時の絵画>

子供はソフィー(2歳の時にハンガリー旅行で病気になって死亡)、ギーゼラ、ルドルフ、マリー・ヴァレリー(ハンガリー生まれ)の四人。

シシィは「旅に生きた」と言われているが、行き先にもマイブームがあり、1876年から82年の間はイギリスでの狩猟にハマっていた(ハンガリーのゲデレーでもよく狩猟をしていた)。1879年と80年の狩猟はアイルランドだったが、準備は全てベイが行った。※ベイの詳細は後述します

シシィの乗馬の腕前は、世界一と謳われるほど。特に横座りの女性用の鞍で、男性以上に馬を操り、障害物や溝も難なく飛び越えた。

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<馬上のシシィ。1880年~1882年>

1882年のイギリス訪問を最後に、乗馬をやめる。理由は背中の痛み(馬車博物館の解説によれば、加齢が原因)と、ベイの結婚により狩猟に対する興味を失ったからとされる。乗馬の代わりに度を超えた散歩やハイキングを行うようになる。フェンシングは44歳から始めた。

1898年スイスのジュネーブで暗殺される。

●フランツ・ヨーゼフ

1830年シェーンブルン宮殿で誕生。1916年同宮殿で没。シシィの7歳年上。

1848年にオーストリア皇帝に即位。
1854年シシィと結婚。
1866/67年ハンガリー国王に即位
映画時点では47歳。
映画には出てこないが、父親のフランツ・カールがなくなったのも1878年。
1879年がフランツ・ヨーゼフとシシィの銀婚式。

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<1880年頃の二人の絵画>

政治面では、1878年、露土戦争後のベルリン会議にて、オーストリア・ハンガリー帝国がボスニア・ヘルツェゴビナの管理下になる。

1875~88年の間のAnna Nahowskiとの関係については後述。
1885年以降は女優カタリナ・シュラットと親しくなる。

●ルドルフ
1858年ウィーン生、1889年マイヤーリンク没

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<1880年頃のルドルフ>

エリザベートとフランツ・ヨーゼフの長男で皇太子。映画の時点で19~20歳。

1877/78年、シシィに伴い、19歳のルドルフもイギリスへ。シシィの妹(ルドルフのおば)マリー、女官のMarie Festeticsも同伴。シシィとベイの話をおばのマリーから聞き、Marie Festeticsに相談。(ベイの項目で詳述)

1878年に勉学を終え、プラハで軍隊に入る。

1881年ベルギー王女シュテファニーと結婚。
1889年マイヤーリンクでマリー・ヴェッツェラと心中。

●マリー・ヴァレリー
1868年ハンガリー生、1924年ドイツWallsee没
(* 22. April 1868 in Ofen, Ungarn; † 6. September 1924 in Wallsee),
https://de.wikipedia.org/wiki/Marie_Valerie_von_%C3%96sterreich

1868年ハンガリーで誕生。ギーゼラやルドルフと異なり、エリザベートはマリー・ヴァレリーを「ハンガリーの子」と呼んで一番お気に入りの娘だった。父親がアンドラーシといううわさもあるが、顔つきからフランツ・ヨーゼフの子とされる。

1878年時点で10歳。ルドルフの10歳年下。
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<1868~1886年の写真とされるが、見た感じ4~5歳くらいなので、1873年頃?>

ハンガリーで多くの時間を過ごしたが、本人は母の意向に反し、ハンガリー的なものを避けるようになった。(映画で前半はハンガリー語で、後半はドイツ語でシシィと会話しているのも、このため)

1890年、Franz Salvator von Österreich-Toskanaとバート・イシュルで結婚。4男6女をもうける。
シシィの死後はヘルメスヴィラ等を相続した。
Marie_Valerie_Austria.jpg
<大人になったマリー・ヴァレリー>

次の記事では、ルートヴィッヒ2世、シシィの妹マリーを取り上げます)

2023-08-19 13:00 | カテゴリ:ウィーンを舞台にした映画
前回に引き続き、映画「エリザベート1878」(原題「コルサージュ」Corsage)のレポです。そういえばこの映画は、ドイツのアマプラで思い立って買って、途中までで止めておこうと思ったのに、引き込まれて一気に見たんだった。

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●映画後半について

前半息詰めるように、ギュギュッとリアルを押し込んで描いてきてるのに、後半がアレはねw 「コルサージュ」ってタイトルほんと面白い。アレはアレで言いたいことはいろいろあるけど、「コルサージュ」だからアレで万事OK!!!(笑)「エリザベート」だったら逆に意味不明かもねw それもあって、タイトルに「エリザベート」が入ると、色々史実と信じちゃう人も出るだろうし、あらぬ誤解を生む気がするのよね。。

まあ一応、大まかには何が史実で何が創造かはわかってた方が、後半なぜああいう流れになるのかはわかりやすいとは思うけど。とにかく解釈の筋の通り方がすごい。史実は脚本家のおもちゃw めっちゃ面白い映画だった!

特に、後半については何度も後から考えてしまう。シシィの不可解な行動一式を、こう説明しちゃうのか、で、結局そうなるってw 解釈のために史実がすごいことになったw 「俺の湖」からの伏線がしびれる!解釈が全てをなぎ倒すパターンww

●オーストリアでの評判は?

オーストリアでこの映画が話題になってたかというと、私の周りではそうでもなかった。というか、話題から避けられてたというか。。FJ役者タイヒマイスターののスキャンダルの方が有名かも。あと、オーストリアではシシィ映画は最近何本も出てるので、ああまたか、まあ見なくていいや、って感じなのかも。

少なくとも私の周りで見た人や、見たいって人はいなかったから、私も見る気なかったけど、日本の人みんな期待してるみたいだし、仕事も少し関係あるし、ってことで急遽見た感じ。オーストリア人的にも、賛否分かれそうだし、スキャンダルあるぶん不利かな。。

だから逆に、スキャンダルの話があまり入ってない、クリーンな状態の日本の方が見る人多いのではw 少なくとも、私は万人ににオススメできるかというと、人を選ぶと思うけど、私は面白く引き込まれて見たよ!ということは言えると思います。

オーストリア人に「コルサージュ見たよ」というと「タイヒマイスターねw」ってw 映画の知名度的も高い(というかみんな知ってる)だけに、汚名も有名。知人の知人で見た人(ミュージカルファン男性)は、「まーまーだった」というどっちつかずな感想だったらしい。ロケ地のお城特定できたって話は聞いたw


●この映画はオススメ?

結局「コルサージュ」オススメかというと、私には何とも言えません。。私は面白いと思ったけど、その人がシシィに持ってるイメージや知識によりそう。ミュージカルや三部作映画見てシシィに憧れを持ってる人は、イメージ壊れると思うけど、最近の史実系映画見てすでにイメージ壊れてる人は、違和感少なめで見れるかな。

あと、史実のエピソードとフィクションは見分けがついたほうが、「ここは監督の解釈や創造だけど、面白いこと考えたな」って思えると思う。全部史実だと思って見ちゃうと、煙に巻かれて何がなんだかわからなくなりそう。

逆にシシィの人生についてほとんど前知識ない(ミュージカルすら見てない)人は、「え?あの有名な美貌の皇妃エリザベートがこれ?どういうこと?」ってなるのでは。ミュージカルは少女時代から丁寧に綴られてて、あの性格の説明がされてるけど、いきなりこの映画は刺激強すぎると思う。

なので、「私はシシィのイメージすでに壊れてるし、史実とフィクションの見分けもまあまあついたから、映画の枠内で楽しめた」って感じかな。ほんとに人によると思います。
ちなみに、シシィを取り巻く登場人物は実在の人物で、その人に関する大まかなエピソードは使われてます。

なんというか、脚本の仕掛けみたいなのがあって、それに気づけたら「脚本面白い!」ってなるし、気づかずに額面通りに受け取ってたら、ふ~んで終わる気がする。気づくかどうかのシグナルが、「史実か創造か」だったりするので、明らかに変な話は鵜呑みにせずにシグナルと受け取るべきなのかも。

(続いて、この映画の登場人物の背景をまとめていきます!)
2023-08-18 18:19 | カテゴリ:ウィーンを舞台にした映画
5月ごろにTwitterに書いた「エリザベート1878」(原題「コルサージュ」Corsage)の感想ツイートをまとめておきます。

原語で見たこともあり、「エリザベート1878」というタイトルより「コルサージュ」の方がしっくりくるので、基本的にレポ内での映画名は「コルサージュ」で統一しています。

ネタバレはところどころ混じっていますが、かなりぼかして書いてます。
あと、ツイートまとめなので、文体が軽いのと、テーマごとに段落わけをしたので、話題が少し飛んでいたりするかもしれません。それではどうぞ~。

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「コルサージュ」(邦題「エリザベート1878」)見た。いい映画かはなんとも言えないけど、面白い映画だった。ミュージカルのシシィしか知らない人が見るとビックリするかもしれないけど、過去のシシィの真実系の映画を見た後だと、こういう解釈もアリだな、と思う。王道ではないけど、筋は通ってる。

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●タイトルとポスターについて

タイトルの話をすると、これは「コルサージュ」。「エリザベート1878」にしちゃうと、エリザベートが主題の歴史モノかと思うけど、これは「コルサージュ」の話だし、エリザベートは題材の一つに過ぎない。40歳の女性に起こる様々な物事の変化をどう受け取るか。「こういう例もあるな」って感じ。

日本版ポスターは「エリザベート1878」のタイトルだからこそ、それを裏切るロックな感じで中指立てた絵柄を選んだんだろうけど、映画見たあとだと、白背景の「コルサージュ」の方がしっくり来る。別に基本そんなにロックではないけど、後半違う意味でロックかもw

なんていうか、シシィ本人も、自分が中指立ててるポスターを見たら、嬉しくないんじゃないかなーなんて思ったりしちゃうので、個人的にはインパクト重視のポスターより、白背景の孤独感や浮遊感のあるポスターの方が好きな気がする。

●登場人物について

前半はエリザベートを取り巻くキャラがたくさん出てきて、知ってる人!この人イメージぴったり!いい事言うじゃん!ってなるw 馬車博物館に行ったところなので、イギリスの場面は真に迫ってた。ルドルフはミュージカルファン的にも納得すぎるw ルドルフが一番イメージ良いw

FJはねぇ。。役者がスキャンダルドロドロだから、ちょっと普通に見れない。役者を変えて、変なイメージなしにFJとして見たかった。。いや、シシィとFJの夫婦の仲ってホント大事だと思うのよね。今回それがいろんなきっかけになってるとこあるし。だからこそFJとして観たかったな、と。

仕事で忙しい40代夫婦って、すれ違いも多いし、ゆっくり話し合う暇もない。疲れてるからケンカもしやすい。体調もなんとなく悪くて、気持ちも不安定。なんかそういうのがリアルで、二人の夫婦関係は「あるある」「まだマシな方」なんじゃないかと思った。

映画だし、史実じゃない部分がたっぷり入ってて、話半分に見るのがいいとは思うけど、シシィの性格をRastlosと表現したのは、馬車博物館の館長の表現と一致してて、「これだ!」って思った。あのきまぐれで突発的な行動は、Rastlosだからだ。「一人幅の道」も超納得。

結局40代の人間の悩みを集約して、それをどう受け止めるかってことよね。。シシィであれ誰であれ。

前半はシシィを取り巻く男たちが魅力的で、そのくせシシィは女子高生みたいで、どうなってるのこの40歳?って思ったけど、それも最後まで見たらなんかわかる気がする。

まあそれでも、子供がいる中で、子供の前でそれやっちゃダメでしょ。。ってことは多すぎ。子供の前はちゃんとした大人であるべき。そこは本人の性格の問題では片付けられない闇。

●ロケ地、言語について

ウィーンのロケがさり気ない!なんていうか、めっちゃ華やかできらびやかなウィーン!ってわけではなく、「わが家の玄関(ホーフブルク スイス宮)」「めんどくさい仕事の現場(美術史美術館)」「ちょっと外の空気でも(シェーンブルン庭園)」みたいなw

ロケの関係だとは思うけど、ウィーンの有名所だいたい夜w それがまた普段見られない「わが家だから夜にウロウロする」感があって新鮮wけど全体に屋外のロケのシーンはそこまで多くはないかな。

あと、登場人物が誰が誰だかめっちゃわかりにくい。ミュージカルに出てきてない重要人物も多いし。けど名前とかほとんど出てこないので、今誰と話してるの?ってよくなる。そんな時、基本的に何語で話してるかは大きなヒントになるので、そういう意味でも言語の振り分けには敏感な方がいい。

私は原語+独語字幕で見たんだが、ドイツ語(オーストリア、バイエルン)、英語、フランス語、ハンガリー語が入り混じる感じが自然というか、これこれ!って感じ。後半は言語が収束していくのも何かの効果になってる。考えてみたら面白いかも。

エリザベートがシシィと呼ばれる場面はなかった気がする。フランツ・ヨーゼフは最初Mein Herz、次からはmon cœurと、独仏語で「私の心」と呼んでた。逆にシシィは女官と話すとき、FJ(エフ・ヨット)と呼んでて、自分の夫をイニシャルで呼ぶ感じに心がザワザワした。




2023-01-27 15:00 | カテゴリ:ミュージカル・コンサート

・ミュージカル系(WillemijnとかオペラとかBelleとか)

今回一番拍手が多かったのは、絶賛ダンヴァース夫人出演中のWillemijn Verkaik。彼女、ウィーンはレベッカが初めてなので、彼女のコンサートでの歌声を聞いたのは初めてなんだけど、この人ほんとすごすぎるわ。。。高音も低音も自由自在で、表現力も豊かで、おまけに笑顔が素敵だし、もうなんかかっこよすぎる。こんなすごい人がウィーンにいてくれて、生で歌声聞けるなんて・・。

She used to be mineという歌も素晴らしく、繰り返しが多いのに毎回全然違って、物語性やキャラのリアルさがビシビシ伝わってきて泣いてしまった。 she's imperfect but she tries, she is good but she lies, she is hard on herself, she's messy but kindって!!!! 歌詞とWillemijnの表情で泣いてしまうよ。。

そしてWillemijnの二曲目The Prayerは、James Parkとのデュエット。Willemijnとのデュエットはキツイだろうと思ったけど、James適役で素晴らしかった!!ホントこの曲は、歌唱的には一番聞きごたえがあったかもしれない。Willemijnも最初はJames行けるかな?って感じでハモってもらってたけど、だんだん「これは行ける!」って思ったのか、自由自在に好きなだけ声出し初めて、すっごく楽しそうで、Jamesもそれに合わせてどんどん盛り上がって行って、たぶん本人たちも予想してなかった素晴らしい歌になったんだと思う。ぎこちなくお辞儀しながらも、めっちゃ笑顔だった!

盛り上がると言えば、Andreas Lichtenbergerの長い一人芝居ソングOpernboogieがもう最高wwいやもうAndreas最高なんですよwww オリジナルオペラ劇中劇を含む、オペラあるあるを詰め込んだ笑える歌www これはもうご本人にMusical Meets Operaで披露してもらうしかないww (AndreasはMMOはドンカミッロの時に出演してるし、絶対また出たいはずw)そして一人何役もこなし、三幕のオペラを上演し、早口言葉や長台詞もぜーーーんぶをものすごいテンションで歌い切り、演じきったAndreasの芸達者さに拍手!!!!NYのパパ役の時には、この人こんな面白くて歌も迫力で濃い人なんて思いもしなかったなー!

全ての曲の中で私が一番好きだったのは、やっぱりNotre dame de ParisのBelle(英語版)かなー。生で聞くのは初めてな気がする、大好きな歌!!!それもBorisがフロロー!!!!すばらしすぎる。。。。カジモドのAris SasもフィーバスのJames Parkもみんなカジモド、フィーバスの声で、わかってらっしゃるーー!!名曲だわこれやっぱり。。

あとは、二幕の最初のVBWカルテットの演奏があったり、MilicaのBitte geh nicht fortも繰り返しが多い中感情のほとばしりが本当に素晴らしかったし(謎選曲だがw)、ルカスとマークのImagineも二人の馴染んだデュエットが素敵だった(ルカスのマキシム見てみたいな―とめっちゃ思った。。)。

●チャリティ

コンサートが終わる前に、今回のコンサートの売り上げが、三つの子供の支援をしている団体に贈られました。受け取り手は、オーストリアの家庭に問題を抱える子供達を支える団体と、前回のコンサートでも支援したウクライナの子供たちのための孤児院と、ケニアに学校を作り1000人の子供たちを教育している団体です。

コンサート中にそれぞれの団体の代表(オーストリアの団体は、Barbara Obermeierも関係者)が、活動内容や背景を聞かせてくれたんだけど、どの団体の人たちもパワフルで行動力にあふれ、困っている子供達に手を差し伸べているので、私もなんか心が熱くなった。

チケット代の他にトンブラ(幕間に販売されるくじ)が行われ、レベッカのチケット2枚と、好きな出演者一人とのMeet&Greet(直接会って話ができる)が三人に当たりました。この発表も最後に行われたんだけど、番号が呼ばれるたびに客席から「ギャー!」って声が聞こえるのが面白すぎたww熱狂的ファンすぎるwそれも客席には男性もいっぱいいるのに、なぜか三人とも女性で、三人が三人ともすごい驚いて叫んでて、ウィーンミュージカルファン女子。。ってなったw

チケットとトンブラの売り上げ合計は77,000ユーロ。これにVBWが4,000ユーロ足して、81,000ユーロの1/3ずつ三つの団体に寄付されます。

私自身最近は、あまりに日々が忙しくて色々忙殺されてしまっているけれど、こうしてチャリティーコンサートに来ることで、ふと顔を上げて周りを見回す機会になる。このような支援活動自体が私の生活そのものだった頃もあったし、今でも関わっていきたいという思いを新たにできる機会を、劇場中の人たちに作ってくれたことに感謝。

そして、最後の一曲は、ルカスとマジャーンのCan you feel the love tonight!!!!!二人の唯一のデュエット!!!やっぱりこの二人なのよ最後は!!!!マジャーンあまり歌声聞く機会ないけど、歌声すごい好きなんだよね。。なんだか、子供を四人育てている夫婦が、家庭を一瞬だけ離れてお互いの声を聴き合って歌い、手をつないで舞台上にいるっていうこの瞬間が本当に貴重で。。

というわけで、マジャーンとルカスのチャリティーコンサートのレポでした!!今回は私がすごく共感できるポップス曲にも沢山巡り会えた上、大好きなミュージカル曲も聞けて、おまけに「子供」や「次世代」のために親世代の私たちが何をできるかを考えさせられた、素晴らしいコンサートでした。こういう機会を作ってくれたマジャーンとルカスに感謝!!!!

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●おまけ

今回のコンサート、超豪華メンバーで普段聞けない曲がたくさん聞けて、大満足ではあったんですが、なぜ子供のためのコンサートなのにこの選曲・・ってツッコミどころがあったので、私ならどんな選曲をするかを軽く考えてみた。

まず、JosephからAny Dream Will Doは外せないよね。一番有名な子供のためのミュージカルだし、明るくてコンサート映えするし、みんなでフィナーレに歌っても楽しい。Josephからだと、Close Every Doorも聞かせどころのある名曲なので、美声を響かせたい人にはお勧め。

そして、「助けが必要な子供」の歌ってミュージカル界にいっぱいあるじゃん!!!!!ウィーンミュージカルだともちろんエリザベートの「ママどこなの」だし、レミゼラブルの「雲の上の城」もなかなか普通のコンサートで出てこないけど、このコンサートのテーマにはピッタリ。もちろんガブローシュのLittle Peopleも!!

そして、今回のコンサート、ウィーン初演ガブローシュも再演ルドルフ(大人だけどw)もいるんですよ。。Aris Sasとルカスが子供ルドルフやガブローシュ歌ってくれたらなー、なんて思ったりして。

あと、Whistle down the WindのWhen the Children Rule the Worldとかも子供が主役の歌だし、他にも結構、子供の視点に立ったミュージカル曲ってあると思うんだけどなー。

というわけで、なんとなく、こういうあまり普段ないテーマを中心に選曲を構成したコンサートも面白いんじゃないかなーと思いました。

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